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日本三奇橋・甲斐の猿橋

Dsc06491 2008年3月29日(土) 大月市の高川山と岩殿山に登った帰り、日本三奇橋と呼ばれる「猿橋」に立ち寄りました。着いたのは日没寸前の時刻だったので、既に他の観光客の姿はなく、ライトアップされた幻想的な猿橋をゆっくり見物できました。一見すると何の変哲もない木造橋ですが、桂川の深い渓谷に架橋するために、橋脚の代わりに両岸からせり出させた四層のはね木で本体を支えています(肘木けた式橋)。構造的には異なりますが、メキシコで見たマヤアーチをふと憶い出しました。 傍らの大月市教育委員会の説明板には、『猿橋架橋の始期につDsc06495いては定かでないが、諸書によれば「昔、推古帝の頃(600年頃)百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)、志耆麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。史実の中では、文明十八年(1486)二月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶佳なるを賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。 応永三十三年(1426)武田信長と足利持氏、大永四年(1524)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地でもありました。江Dsc06494戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州街道の要衛として、御普請所工事(直轄工事)にて九回の架け替えと、十数回に及ぶ修理が行われてきました。この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。昭和七年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。昭和九年 西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、その後も名勝として生き続けています。今回の架け替えは、嘉永四年(1851)の出来形帳により架けられており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。昭和五十八年着工、昭和五十九年八月完成、総工費三億八千三百万円であります。橋の長さ、30.9メートル、橋の幅、3.3メートル、橋より水際まで30メートルです。』、と記されています。因みに、日本三奇橋は、一般的には、「甲斐の猿橋」、「岩国の錦帯橋」、「祖谷のかずら橋」をさすようです。

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