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史都・多賀城の史跡めぐり

2008年6月17日(火) 10:00新しい自転車で多賀城の史跡めぐりサイクリングに出発、多賀城まで10㎞以上あるが、爽やかな好天の中、風を切って走るのが心地好い。途中上州屋に寄って岸壁チョイ投げ用の釣り道具を購入し、多賀城ジャスコ近くの幸楽苑でラーメンを食べる。 息子達のアパートへ釣り道具を預けて身軽になり、いよいよ史跡巡りにかかる。Dsc07838多賀城には是まで数え切れないほど来ているが、史跡をじっくり見学するのは初めてである。先ずは「多賀城廃寺跡」へ。多賀城廃寺は、奈良時代に陸奥国府と鎮守府のおかれた多賀城の附属寺院として建立されたもので、国家の安定と、東北地方の順調な経営を願ったといわれている。建物の配置は、東に三重塔、西に金堂が互いに向い合い、中央部南には門があり、中央部北には講堂がある。また南の門の左右から築地がつくられ、塔金堂を囲んで北の講堂の左右に取り付いている。このような伽藍配置は、福岡県太宰府の観世音寺とよく似ている。昭和41年4月、多賀城跡とともに国の特別史跡に指定されている。 現在は基壇と礎石があるばかり、初夏の陽光が遺跡に燦燦と降り注ぎ、辺りに静かな虚無感が漂う。道路1本挟んだ隣地に「多賀神社」が鎮座する。Dsc07846由緒には「此の地は、かって陸奥国多賀郷の中心地で陸奥国府鎮護寺の境内にあり、当時任務に赴いた国司、開拓移民が崇敬していた江州多賀神社(現滋賀県多賀大社)を遷祀したとされている。奈良時代の風土記に当時の神事が記載されており、平安時代には桓武天皇より西暦七九六年に従五位下の位を受けるなど、朝廷や民衆より崇敬を受けていた古社である。しかし、朝廷が陸奥征服を果たし、軍事拠点であった多賀城の繁栄も途絶えるのに伴い、当社の所在も不明になるほど一時衰退した。明治に入り村社を決める際、所在さえ定かでなかった為いろいろ論議されたが、明治五年九月に「延喜式内社」として村社格に加列される。昭和四十年当社境内地を含めた一円が、国の特別史跡に指定され、史跡公園の施工に伴い、多賀城廃寺跡東塔基壇上に鎮座した神殿、Dsc07868その他の施設を移転し、現在の地に神霊を安鎮した。平成十三年、氏子崇敬者協力のもと、社殿を改築し現在に至る。多賀神社總代」とある。 三箇所目は「壷の碑(つぼのいしぶみ)」、日本三古碑のひとつであり、元禄二年(1689)五月八日に松尾芭蕉も此の地を訪れ、「おくのほそ道」の中にその感懐を記している(壷の碑については別途投稿予定)。四箇所目が「多賀城政庁跡」、いつの間にか大駐車場が設けられ、付近は大々的に整備されつつある。いよいよ多賀城市も「多賀城跡」を核に、東北の鎌倉と謳う史都を前面に押し出し、観光立市を図ろうとするらしい。多賀城の造営は大きく4期に分けられる。即ち、第Ⅰ期Dsc07881 :神亀元(724)年、大野東人により多賀城が創建される。最初に造営された政庁の建物は全て掘立式であり、主要建物は瓦葺であったと考えられている。第Ⅱ期:天平宝字六(762)年、藤原朝獦により多賀城の大改修が行われる。建物はすべて礎石式、瓦葺に建て替えられる。伊治公砦麻呂の乱で消失。第Ⅲ期:宝亀十一(780)年、伊治公砦麻呂による焼き討ち後再建、869年の大地震で被害を受ける。第Ⅳ期:貞観十一(869)年、陸奥国大地震被害後の復興。災害復興は主に瓦の葺き替えが行われた。その後、新たに北方建物が造られた。最高所の政庁正殿跡に登り、多賀城跡の全景を眺め、1200年余の昔に思いを馳せる。後村上天皇(在位1339-1368)や明治天皇(同1868-1912)も巡幸されたのか、傍らに「後村上天皇御座之處」と「明治天皇御霊跡」の石碑が建つ。いきなりの長距離サイクリングですっかり腰が痛くなったので、史跡巡りを切り上げ真っ直ぐ仙台へ帰る。15:30漸く帰宅。

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