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多賀城碑(壷の碑)

2007年6月17日(火) 多賀城碑は平成十年六月三十日指定の重要文化財である。長い間真贋論争があったためか指定日は意外に新しい。Dsc07883多賀城政庁跡にほど近い台地の中腹に立ち、覆い堂に護られている。傍らに説明板があり、『多賀城碑は、砂岩を加工して碑面をつくり文字を彫り込んだもので、高さ約二メートル、幅約一メートル、厚さ約七〇センチメートルで、碑面は西を向いて立てられています。多賀城 京去一千五百里 蝦夷国界去一百二十里 常陸国界去四百十二里 下野国界去二百七十四里 靺鞨国界去三千里 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置也 天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山節度使従四位上仁武省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也 天平寳字六年十二月一日。碑面には、上部に大きく「西」の字があり、その下の長方形の枠線の中に十一行一四〇字が刻まれています。碑文の内容は大きく分けて二つの部分から成ります。前半は、多賀城の位置を京や国の境からの距離で示しています。後半は、多賀城が神亀元年(724)に大野朝臣東人(おおのあそんあずまびと)によって設置されたこと、 天平宝字六年(762)藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらえみあそんDsc07852あさかり)によって修造されたことが記され、最後に碑が建てられた年月日が刻まれています。碑文の内容から藤原恵美朝臣朝獦の業績を顕彰するために建てられた多賀城の修造記念碑とみることができます。また、碑は、歌枕として有名な「壷碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれており、元禄二年(1689)には松尾芭蕉もこの碑を訪れ、深く感動し、涙を流した様子を「おくのほそ道」の中に書き残しています。多賀城碑は、群馬県吉井町の多胡碑(たごひ)、栃木県湯津上村の那須国造碑(なすこくぞうひ)とともに日本三古碑のひとつです。平成十一年三月 多賀城市教育委員会』とある。以前見た時に比べ 碑面の文字が薄れて読みにくくなったような気がする。芭蕉のDsc07858「おくのほそ道」の「壷の碑」の項には、『かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。壷の碑 市川村多賀城に有。つぼの石ぶみは、高六尺余、横三尺計歟。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。「此城、神亀元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣獏修造而。十二月朔日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也』と記されている。同行の曾良の日記によれば元禄二年(1689)五月八日のことである。 入口に立つ道標銘は享保十四年五月己酉(1729)、芭蕉が訪れてから40年後に建てられたものである。日本三古碑のうち、吉井町の多胡碑は高崎に住んでいた頃何回か訪ねているので、残るは那須国造碑、そのうち見学に行ってみよう。

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