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キクイモ(野生種)

Dsc04592 2009年1月27日(火) 根木内歴史公園へ寒茸採りに行った序に、入口の川沿い土手に野生化しているキクイモを掘り起こしてみる。30分ほどのアルバイトで簡単にレジ袋一杯の根茎が採れる。超小型のサツマイモのような姿形で、先日「道の駅ならは」で購入したものに比べ紅く小粒である。持ち帰って泥を洗い落とし、大きいものを選んで焼き芋にして食べる。風味は栽培品と変わらない。腰がないので物足りないが、十分食べられる。キクイモは健康食品としても加工販売されており、体にも良さそうである。今のような飽食の時代に出番は少ないと思うが、 日本の食糧自給率僅か40%、いつ何時食糧危機に見舞われるかわからない。自生地を探しておいて損はない。

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続寒茸採り

Dsc045782009年1月27日(火) たっぷり雨が降ってから5日経ったので、そろそろ出揃った頃とエノキタケ採りに出かける。場所は自宅から徒歩10分の根木内歴史公園、今日は珍しく誰もいない。フジの切株で褐色に萎んでいるヒラタケは去年の11月頃に発生したものである。味が良くないので採らずにおいたが、場所が場所だけに誰にも気付かれないらしい。いつもの2箇所の切株でエノキタケを採取する。小さな切株ながら今年4、5回目の発生で、誠に律儀なものである。汁の実には少し足りないが、市販品も足して澄まし汁にしてもらおう。(写真は左がエノキタケ、右がヒラタケ)

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高原紫花豆

2Dsc04580009年1月25日(日) 栗の渋皮煮も青イチジクの姿煮もとうとう食べ尽くしてしまったので、昨秋白馬高原で購入し保存しておいた花豆で煮豆を作ってもらう。ゴンドラリフト乗り場近くの露店で買い求めたもので1キログラムが800円、菅平高原産と表示してあったが、今考えてみると国産品にしては安過ぎる。それはともかく、予め塩水に3日間浸漬し、その塩水を捨てて水を足し、とろ火で1時間ほど煮る。柔らかくなったら砂糖を加えて好みの甘さに調整すると出来上がり。午後、甘い大粒の花豆をお茶請けにしながら、暖房の効いた部屋に籠もり、藤沢周平著の「密謀」(今年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公、直江兼続の物語)を読む。 今日無事、知足安分、これで良い。

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キクイモ(栽培品)

Dsc045702009年1月23日(金) 19日に仙台から柏に戻る途中、国道6号線の「道の駅ならは」で購入したキクイモは一袋が170円でした。まるでネショウガのような姿形をしています。夕食時、肉ジャガ風と天ぷらに調理してもらい、生れて初めて食しました。ジャガイモよりは随分柔らかく(水っぽく)、ちょうどカブの煮物のような食感です。特有の匂いと甘味があります。まあ「食べられる」という程度、ジャガイモより風味は劣るようです。根茎に貯蔵多糖類の一種、イヌリン(D-フルクトフラノースが〈1,2〉結合で脱水縮合した重合度27-30の化合物)を多量に含むため、欧米では食用の他、果糖やアルコール製造の原料にされるようです。 日本には食用もしくは観賞用として入ってきたようですが、繁殖力が強いので今では各地で野生化しています。近所の公園や道端、土手にもキクイモらしき植物(或いは根茎が大きくならないイヌキクイモの方かも)が生えていますので、近いうちに芋掘りに行き、天然物も試食してみるつもりです。

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奥の細道三十三霊場 第九番 白魚山大徳寺(津山町)

2009年1月17日(土) 柳津虚空蔵尊から国道45号線を7.5㎞北上した所に横山不動尊はある。山門、Dsc04540 御堂とも柳津虚空蔵尊より立派である。それもその筈、御本尊の木造不動明王坐像は丈六(4.8m)の巨像で我が国屈指の雄作、国の重要文化財に指定されている。奥の細道三十三霊場第九番とあるので、今から320年前に芭蕉と曾良も一関へ向う途中にお参りしたのであろう。境内には国指定天然記念物「横山のウグイ生息地」の御池があり、また宮城県指定文化財、明和三年(1766)建立の「青銅五重塔」、津山町指定文化財の樹齢300~400年の「横山不動尊のスギ」、同じく樹齢200年の「横山不動尊のカシ」(北限のシラカシ)などがあり見所が多い。本堂にお参りし、境内を一巡りしてから帰路に着く。Dsc04556

《横山不動明王略縁起》  当山鎮守大聖不動明王は、日本三不動の一と称され、丈六の尊像は弘法大師の御作であります。凡そ今を去る約八百有余年の昔、七十七代後白河天皇の御代、保元(1156-1158)の頃百済国より本吉郡志津川町水戸辺浜に着岸、三條重信と称する供護の従士、霊感により当横山中の森山中央に一宇を建立し尊像を安置し給うたと言われます。中の森山とは現境内を去る六百米余の寺有林山上で不動尊奥ノ院と称されます。当時は明王山金剛寺と称し、真言の道場でありましたが、その後、Dsc04555永正元年(1504)当横山邑館主男沢蔵人殿が改めて禅刹(曹洞宗)とし、白魚山大徳寺と呼称いたしました。  天正十八年(1590)葛西左京太夫晴信殿が山麓に本堂を移され、深く霊像を信仰し給うたと言われます。その後、貞享二年(1685)仙台城主伊達綱村公、高堂五間四面に御再営、佛供料として知行高弐貫文並びに宝物等の御寄付があり、代々御墨付を頂戴し、霊験あらたかな不動尊として広くその名が知られ、多数の善男善女により深く信仰されてまいりました。大正十五年(1926)二月五日附近の民家より出火、折節風は烈しく、炎は忽ちにして本堂に延焼し、惜しくも全焼しましたが、幸にして御本尊は災禍を免れ昔の姿をとどめております。現在の堂宇は、昭和三年(1928)五月七日完成し、現在に至っていますが、建築流儀は本林流宝塔造りと称されます。なお縁日は毎月二十八日、大祭典は春秋の二回、四月及び十月の各二十八日であります。昭和五十四年二月三十日(?)、当不動尊境内および寺有林全域は、南三陸金華山国定公園の一部に指定されました。

《重要文化財・木造不動明王坐像》 「横山のお不動様」の名で今も広く信仰を集めるこの尊像は、通常みられる仏像では最大の基準(丈六=一丈六尺。約4.8メートル。坐像はその半分)を用いた巨像であるばかりでなく、Dsc04549製作時期が平安時代にまでさかのぼるという、わが国屈指の不動明王像の雄作である。仏敵を打ち砕くべく忿怒の形相を示すものの、全体に温雅な気分の漂う作風は平安時代後期の特色をよくあらわしており、この尊像が保元年中(1156-1159)に近くの浜辺に流れ着いたという寺伝を製作時期のひとつの目安とすることは可能である。東北地方の仏像に多いカツラを用材とすることから、この地方で活躍した仏師の製作になるものとみられる。これほどの巨像を破綻なくまとめ上げ、さらには手先に至るまで内部を空洞にして荷重の軽減を図るなど、その技量は賞されよう。この地域は当時、「本良荘」と呼ばれ、平泉にあった奥州藤原氏の勢力が及んでいたと考えられている。この尊像の製作にも奥州藤原氏がなんらかのかたちで関与した可能性は考えられる。この地域の歴史を語る上でも貴重な存在である。また、修理による改変が少なく当初のお姿をよくとどめ、手先、宝剣までがほぼ当時のままであることは大変喜ばしい。 平成10年3月 津山町教育委員会

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奥の細道三十三霊場 第八番 柳津山宝性院(津山町)

2009年1月17日(土) 過日ネットで調べたところ、宮城県にも日本三大虚空蔵尊と称するお寺(柳津山宝性院)がある。Dsc04502所在地は本吉郡津山町、仙台から北東70㎞ほどの距離である。灯台下暗し、仙台に帰省した序に早速訪ねてみる。 10:10出発、国道45号線を北上し、松島、石巻を経由、12:20宝性院着。駐車場も境内も夜来の雪が凍てつきつるつる。山門や御堂はこじんまりしており、寺勢盛んとは言い難いけれども、奥の細道三十三霊場第八番、三陸三十三観音霊場第九番の門札を掲げているところを見ると、名刹、古刹であることは間違いない。境内に掲げられた由緒書を読むと、「日本三所の一 宮城柳津福智満虚空蔵尊 当山は柳津山宝性院と号し、真言宗智山派に属す。神亀三(726)年(第四十五代聖武天皇)秋九月行基菩薩勅を受け東国を巡遊し、Dsc04516この地に来り御修法二十一日間一刀三礼し、 自ら虚空蔵を刻む、その丈一尺二寸もって、 天下泰平、国家安穏を祈り、同月十三日一宇を黄土山の嶺に創立しこれを信心して、一村の守護仏として尊崇した。後宝亀二(771)年三月大伴家持宮城郡多賀城にありし時登山して、これを拝して言うに福島の会津柳津、山口の柳津に安置せる仏像も同じく行基の作で日本三所の秘仏である。かくも尊いものなれば三十三年目毎に開帳する外みだりに衆人これを拝すること恐れありと。其の後弘仁九(818)年(五十二代嵯峨天皇)五月三日弘法大師此の堂に籠もり二十一日間の密行を務め、大黒天長さ八寸のものと、毘沙門天長さ一尺二寸のものの二体を刻し、 もって其の左右に安置し尚本堂を今の地に移した。其の後中古に至ってしばしば野火にあいましたが幸にして本尊の安泰を得、法灯連綿として現在に至っております。虚空蔵菩薩は丑、寅生れの一生一代の守り本尊であり鰻(うなぎ)は虚空蔵菩薩のお使いの魚で絶対に殺生しないことになっております」とある。又、境内には柳津虚空蔵尊七不思議という「玉こぶの欅」、Dsc04525「雫の桜」、「一夜の松」、「月見の井戸」、「片葉のよし」、「黄土山の黄金水」、「子育ての松」もあり、更に、大伴家持作の百人一首(「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにけり」)に詠まれている鵲(かささぎ)橋まである。二重、三重に虚空蔵尊の権威付けがなされている。今年は丑年なので一段とお参りする人が多く、松の内が明けた今日でもひっきりなしに地元の人がやってくる。虚空蔵菩薩の御真言(「のうぼうあぎやしや ぎゃらはやおんありぎや まりぼり そわか」)を唱えながら本堂にお参りする。その後、背後の山(黄土山、現在の地図名では大土山)の中腹に建つ奥の院にもお参りする。そして道なき尾根を急登して山頂を極める(姉妹編ブログの自惚山人ノオト「432.大土山」参照)。下山後、津山町のもうひとつの名所、横山不動尊へ向う。     

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松島四大観・多聞山

2009年1月16日(金) 12:00多聞山駐車場着、辺りは公園風に整備され昔の素朴な面影は失われている。 山頂に葉衣(ようえ)観音を祀る深山権現社があるが、これは個人のお社で、七ヶ浜町代ヶ崎浜Dsc04483の伊藤家の氏神様とのことである。この辺りの地主か網元か、ともかくも有力者であろう。因みに、葉衣観音は変化観音のひとつで帝釈身を現わすらしい。山頂から少し下って、毘沙門堂が建つ松島四大観展望所へ。そこは海面が近いだけに景色が一層鮮やかである。傍らの説明板には、「多聞山 多聞山は標高56メートルの景勝地で、多聞天像を安置する毘沙門堂があるので多聞山と呼ばれるようになった。多聞山は眼下に馬放(まはなし)水道、塩釜港を臨み、松島湾の南部景観の好点を占め大高森、富山、 扇谷と合せ松島四大観として知られ、多聞山からの景観は美観と称されている。多聞山の美観は、大小の島々が名園の配石の様に所を得て、その姿態、色調が巧妙であり、富山、大高森の遠景がよく調和された一幅の大観となり、老松の間から展望されるところにある。馬放島と地蔵島が脚下に横たわり、老松の間から抜け出た白色の灯台と海の青とが調Dsc04481和し、前面に点在する島々が、松の緑を競い、東方洋上ははるかに、霊峰は金華山を望み、北方に松島湾の全景を遠望し、更に山頂からは雄大で変化に富む景観の転回を楽しむことができる。多聞山を海上から望見するのもまた、一興である。馬放水道からそそり立つ山のたたずまい、老松の美しさ、林間に穏見する古さびた 毘沙門堂も奥ゆかしく、訪れる人を楽しませている地でもある。七ヶ浜町・七ヶ浜町観光協会」とある。仏教では、多聞天はじめ四天王は世界の中心に聳える山・須弥山を守る役目を担っており、須弥山において帝釈天に仕えると言われているので、多聞山を須弥山に見立て、山頂に帝釈天(ここでは葉衣観音)を祀り、北面の中腹に毘沙門堂を築いて多聞天を祀るようになったものと思われる。もしかしてもっと昔は、中腹の東西南北に御堂が建ち、東の御堂には持国天像、西には増長天像、南には広目天像が祀られており、また山名も帝釈山と呼ばれていたのでは・・・などと想像を逞しくしながら多聞山を後にする。帰路、南蒲生の松林に立ち寄り、伐採されたばかりのサクラやニセアカシアの丸太を拾う。

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松島四大観・富山

2009年1月16日(金) 榴ヶ岡駅前のコンビニで買ってきた日経新聞をゆっくり読んでから松島四大観の富山へ出発、マンションでの一人暮らしはなかなか快適である。1時間ぴったりで富山観音入口の駐車場に着く。風邪が冷たい。前回ここに来たのは10年前(1998年8月16日)であるが、いつの間にDsc04463か参道の石段が立派に修復されている。山頂に建つ観音堂も仁王門も最近立て替えられたようで真新しい。特に朱塗りの観音堂は派手派手、以前の古色蒼然たる御堂の床しき面影はどこにもない。観音堂を取り巻いて鬱蒼と繁っていた老杉は伐られ、延宝六年(1678)銘の石灯籠は崩れ落ち、五郎八姫の像も打ち捨てられている。建物は新しくなったがこれでは罰当たりでは、むしろ境内には荒んだ雰囲気が漂う。松島四大観のひとつとしてこれから大々的に打って出て、観光客を呼び込もうというのかも知れないが、感心しない。 東屋から昔と変わるところがない松島の景色をほっとしながら眺め、観音堂にお参りしてから、もうひとつの四大観・多聞山へ向う。因みに、平成13年9月松島町教育委Dsc04467員会作成の説明板には、『松島町指定文化財・富山観音堂(The shrine of Avalokitesvara) 観音堂は、坂上田村麻呂が大同年間(806-810)に慈覚大師作の観音菩薩像を安置したと伝えられ、石巻市牧山、涌谷町篦嶽(ののだけ)とあわせて奥州三観音として信仰されてきました。堂は、伊達政宗の長女五郎八姫(いろはひめ)が貞応三年(1654)に改修させたもので、方三間、屋根宝形造瓦葺で、石積みの基壇は珍しいと言われています。東方にある梵鐘(宮城県指定文化財)は明暦三年(1657)に五郎八姫によって寄進されたものであります。堂の南東下には、瑞巌寺第100世洞水和尚が開山した大仰寺があります。富山は、標高116.8mで、文政六年(1823)仙台藩の儒学者舟山万年が松島湾を眺望するに最も素晴らしい松島四大観の一つ「麗観」と紹介しています。』とある。

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大崎八幡宮

2009年1月15日(木) 昨日、ひとり車で帰省、榴ヶ岡天満宮のドンド焼きに辛うじて間に合い、古い神札や破魔矢、達磨等を無事焚き上げる。今朝起きると外は一面の銀世界、小雪が舞い、さすがに仙台はDsc04442寒い。 午後雪が止んだので、八幡町の大崎八幡宮へお参りに行く。大崎八幡宮のドンド焼き(松焚祭(まつたきまつり)と称している)は三百年の歴史を有し、全国でも最大級の正月送りの行事である。また松焚祭の「御神火」を目指して市内各所より数千人が参拝する裸参りは、杜の都・仙台の冬の風物詩として知られている。駐車場に車を入れ、三の鳥居左側の広場に廻ると、大分衰えたもののなお御神火が燃えている。今日も松飾りを燃やしに来る人があるらしい。炎にあたり、今年一年間の無病息災と家内安全を願う。その後重要文化財の「長床」をくぐり、国宝の「御社殿」にお参りする。御社殿は安土桃山時代の文化を今に伝える我が国最古の建造物であり、藩祖・伊達政宗公が豊臣家召抱えの工匠を招聘して造営に当らせただけに、豪華絢爛、豪壮華麗、仙台総鎮守の名に相応しい建物である。 今日の最高気温は2度、境内は合わせる手がかじかむほど寒さDsc04435_2が厳しく、早々に退散する。

《御由緒》 平安の昔、東夷征伐に際して坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀。その後、室町時代に奥州管領大崎氏はこれを自領内の遠田郡田尻町(現大崎市)に遷祀し守護神として篤く崇敬した為、世に大崎八幡宮と呼ばれる。大崎氏の滅亡後は伊達政宗公が居城の玉造郡岩出山城内の小祀に御神体を遷し、仙台開府後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀る。その際に旧領の羽前国米沢にて代々崇敬していた成島八幡宮を合祀している。藩政時代を通じ歴代藩主の篤い尊崇を受け、明治以降は大崎八幡神社と称していたが、その歴史的経緯を考慮し、平成九年六月、社名を大崎八幡宮に復し、現在に至る。  

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寒茸採り

Dsc044172009年1月10日(土) 昨日東京都心に初雪、低気圧が北海道東方沖で発達し、北日本と日本海側は大荒れ、柏も18日ぶりの雨。今日は青空覗くも終日寒風が吹き荒れる。仙台の蔵王颪(おろし)に匹敵する冷たい風であるが、柏では筑波颪とでも呼ぶのであろうか。午後、根木内歴史公園へ行き今年初めてのキノコ採り、件の切株2本にエノキタケを見つけたものの一回分の汁の実にも足りず、もっと他を当らねばなるまい。

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峰寺山西光院

2009年1月8日(木) 筑波連山の支峰のひとつ、峰寺山に登るべく、その中腹にある西光院の駐車場に車を駐める。峰寺山という山名の由来となったお寺であり、関東の清水寺とも称される由緒ある古刹Dsc04379なので、山頂に登る前にお参りする。  旧八郷町(現石岡市)教育委員会の解説板を読むと、「県指定有形文化財 *西光院本堂(建造物)、指定年月日 昭和45年9月28日、*木造立木観音菩薩像(彫刻)、指定年月日 昭和36年7月21日、所在地 石岡市吉生」という題で、「峰寺山西光院は平安初期の大同年間、京都から来た徳一法師の開基と伝えられ、もとは法相宗であったが、中世真言宗となり現在は天台宗に属している。峰寺山の中腹にあり、晴天の日は霞ヶ浦より遠く太平洋を望むことができ、眺望絶景の位置にある。自然石の観音像を本尊とするこの寺の本堂は関東の清水寺と呼ばれ、岩棚状の細長い敷地の奥の崖に懸け出して建てられた懸造りの建物で、岩肌に脚柱を建て舞台型を作った上に、桁行三間梁間三間寄棟造り瓦棒鉄板葺(もとこけら葺か)の本体を組んでいる。この本堂は崖の表面に作り出された巨大な石仏の上半身を覆うように作られた珍しいもので、現在の建物は江戸時代末期頃と推定されるが、石仏が火災にあっているところから、前身堂が焼失したのが判り、寺院の創立は相当古いとみられる。またこの寺には、立木仏と呼ばれる十一面観音立像が祀られている。これは徳一法師の創建と伝えられ、像内にある元文Dsc04395二年(1737)の修理墨書銘札によると、本来ここにあったものではなく、もと山麓吉生村の立木山広照院長谷寺に伝来したらしい。像高597センチメートル。弁形刻出の天冠台上化仏から腰裳の下四分 の一位までがハリギリ材の一木造、頂上仏を枘差し、両臂・両肘矧付け、頭・体部とも内刳りを施し、背板をあてている。像は雨にかかったせいか、像表面が荒れ、当初のノミの痕を見ることは出来ないが、そのずんどうの体躯のとらえ方、後補とはいえ、台座をつくらず自然木の根を矧付けている点など、本来立木仏として造られたことを伝えている。製作年代は平安時代末、十二世紀頃のものであろう。」と書かれている。先ず観音堂にお参りする。堂内には巨大な立木観音像と、常陸七福神の毘沙門尊天が祀られている。次いで本堂の回廊に上りお参りする。格子扉の内部を透かして見ると、厨子の前に憤怒の形相の前立ち馬頭観音菩薩像が置かれている。厨子の扉は固く閉ざされており、その内部は窺い知れないが、恐らく自然石であるご本尊のお顔の部分が隠されているのであろう。有り難くお参りしてから、箱庭のような八郷盆地と雪割山・浅間山の山並を眺める。茨城百景に選ばれているのが納得できる素晴らしい景色である。今日は思いもよらず立派な観音様に巡り逢うことが出来て真に幸せ、決まりをつけるために峰寺山の山頂へ向う。

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天然ヒラタケ三昧

Dsc043722009年1月7日(水) 今日は七草、例年なら七草粥を食べる日であるが今年はパス、昨年末に東筑波山塊の雪割山で採取したヒラタケで炊き込みご飯を作ってもらう。一昨日は野菜炒めの具に使い、昨日はお澄まし、三日連続で天然ヒラタケ料理を楽しむ。ヤマザクラの立枯れに生えていたものだけに、温和な香りと上品な味はどんな料理にも良く合う。昨秋採取したノダフジに発生したものは香りが強過ぎて不味であった(2008年10月28日記事、「ヒラタケのホイル焼」参照)ことを考え合せると、天然キノコと雖も発生する樹種により、香味に相当影響を受けるようである。

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