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奥の細道三十三霊場 第九番 白魚山大徳寺(津山町)

2009年1月17日(土) 柳津虚空蔵尊から国道45号線を7.5㎞北上した所に横山不動尊はある。山門、Dsc04540 御堂とも柳津虚空蔵尊より立派である。それもその筈、御本尊の木造不動明王坐像は丈六(4.8m)の巨像で我が国屈指の雄作、国の重要文化財に指定されている。奥の細道三十三霊場第九番とあるので、今から320年前に芭蕉と曾良も一関へ向う途中にお参りしたのであろう。境内には国指定天然記念物「横山のウグイ生息地」の御池があり、また宮城県指定文化財、明和三年(1766)建立の「青銅五重塔」、津山町指定文化財の樹齢300~400年の「横山不動尊のスギ」、同じく樹齢200年の「横山不動尊のカシ」(北限のシラカシ)などがあり見所が多い。本堂にお参りし、境内を一巡りしてから帰路に着く。Dsc04556

《横山不動明王略縁起》  当山鎮守大聖不動明王は、日本三不動の一と称され、丈六の尊像は弘法大師の御作であります。凡そ今を去る約八百有余年の昔、七十七代後白河天皇の御代、保元(1156-1158)の頃百済国より本吉郡志津川町水戸辺浜に着岸、三條重信と称する供護の従士、霊感により当横山中の森山中央に一宇を建立し尊像を安置し給うたと言われます。中の森山とは現境内を去る六百米余の寺有林山上で不動尊奥ノ院と称されます。当時は明王山金剛寺と称し、真言の道場でありましたが、その後、Dsc04555永正元年(1504)当横山邑館主男沢蔵人殿が改めて禅刹(曹洞宗)とし、白魚山大徳寺と呼称いたしました。  天正十八年(1590)葛西左京太夫晴信殿が山麓に本堂を移され、深く霊像を信仰し給うたと言われます。その後、貞享二年(1685)仙台城主伊達綱村公、高堂五間四面に御再営、佛供料として知行高弐貫文並びに宝物等の御寄付があり、代々御墨付を頂戴し、霊験あらたかな不動尊として広くその名が知られ、多数の善男善女により深く信仰されてまいりました。大正十五年(1926)二月五日附近の民家より出火、折節風は烈しく、炎は忽ちにして本堂に延焼し、惜しくも全焼しましたが、幸にして御本尊は災禍を免れ昔の姿をとどめております。現在の堂宇は、昭和三年(1928)五月七日完成し、現在に至っていますが、建築流儀は本林流宝塔造りと称されます。なお縁日は毎月二十八日、大祭典は春秋の二回、四月及び十月の各二十八日であります。昭和五十四年二月三十日(?)、当不動尊境内および寺有林全域は、南三陸金華山国定公園の一部に指定されました。

《重要文化財・木造不動明王坐像》 「横山のお不動様」の名で今も広く信仰を集めるこの尊像は、通常みられる仏像では最大の基準(丈六=一丈六尺。約4.8メートル。坐像はその半分)を用いた巨像であるばかりでなく、Dsc04549製作時期が平安時代にまでさかのぼるという、わが国屈指の不動明王像の雄作である。仏敵を打ち砕くべく忿怒の形相を示すものの、全体に温雅な気分の漂う作風は平安時代後期の特色をよくあらわしており、この尊像が保元年中(1156-1159)に近くの浜辺に流れ着いたという寺伝を製作時期のひとつの目安とすることは可能である。東北地方の仏像に多いカツラを用材とすることから、この地方で活躍した仏師の製作になるものとみられる。これほどの巨像を破綻なくまとめ上げ、さらには手先に至るまで内部を空洞にして荷重の軽減を図るなど、その技量は賞されよう。この地域は当時、「本良荘」と呼ばれ、平泉にあった奥州藤原氏の勢力が及んでいたと考えられている。この尊像の製作にも奥州藤原氏がなんらかのかたちで関与した可能性は考えられる。この地域の歴史を語る上でも貴重な存在である。また、修理による改変が少なく当初のお姿をよくとどめ、手先、宝剣までがほぼ当時のままであることは大変喜ばしい。 平成10年3月 津山町教育委員会

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