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松島散策(円通院・観瀾亭・雄島)

2009年8月28日(金) 榴ヶ岡駅11:39の電車で松島散策へ。松島駅で降り真っ直ぐ円通院へと思ったが、その手前の瑞雲峰天麟院に立ち寄る。伊達政宗の長女五郎八(いろは)姫の菩提寺であり、65歳から亡くなるまでの3年間を過したお寺である。三陸三十三観音霊場第二番札所でもあるが拝観は無料、今時奇特で有り難い。臨済宗妙心寺派に属し御本尊は江戸時代中期作の釈迦如来坐像である。境内で総高6m、イタリア産大理石製の子育水子地蔵尊を拝観してから、墓地の石段を登り最奥の高台に建つ五郎八姫の霊屋(墓所)にお参りする。傍らの説明Dsc08288には「万治元年五月八日没、享年六十八歳、法諡を天麟院瑞雲全祥尼大姉と号す」とあるが、寛文元年(1661)の誤りではないか。徳川家康の六男である高田藩六十一万石の領主松平忠輝の正室に納まりながら、忠輝改易に伴い離縁され、後半生は仙台近郊で暮らしたという薄幸の佳人である。 説明の続きを読む。「寛文三年(1663)伊達家四代綱村によって霊屋が創建され、瑞巌寺百世天麟院開山洞水和尚の書になる『定照』の扁額が掲げられた。明治二年霊屋が解体、明治二十二年十四代伊達宗基伯爵の墓銘になる墓が建立され、仮霊屋として現在に至る」。こんな所に五郎八姫の墓所があったとは・・・、燈台下暗しというか迂闊にも今日初めて気がつく有様、装飾の殆どない仮霊屋は質素で地味であり、瑞巌寺にある愛姫(めごひめ)の絢爛豪華な霊屋とは雲泥の開きがある。五郎八姫は亡くなってからも幸薄い。せめてもの慰めは側に聳える樹齢350年というハリモミの大樹、霊屋創建時に植えられたもので松島町の天然記念物であり、姫の廟所を護るかのように立ち続ける。墓地の左手に更に石段があり、 それを登った高台には宮城県指定重要文化財の日吉山王神社が建つ。由緒書きには、「天長五年(828)慈覚大師が延福寺(瑞巌寺のこと)創建のとき、その護神として近江坂本の山王社の分霊を勧請し、天竜庵(五大堂向いの小高い丘)のほとりに祀ってあったものを、寛永十七年(1639)時の瑞巌寺住職雲居禅師によって現在の地に祀られたが、宝永八(1711)年とその後数回にわたり修復が行われた。社殿は江戸時代中期の秀作とされ、昭和43年春、本殿拝殿が修理された。主祭神大山咋神(おほやまくひのかみ)、相殿に国常立神(くにとこたちのかみ)、日仲彦神、伊弉神を祀る」とある。氏子に地元の有力者が多いようで今も修復Dsc08301工事の最中である。お参りしてから円通院へ。 臨済宗妙心寺派円通院は三陸三十三観音第一番札所であり、伊達政宗の嫡孫光宗君の菩提寺、松島の名庭園として有名である。瑞巌寺は何回も拝観したが円通院に入るのは初めてである。拝観料は300円、山門をくぐると直ぐ左手に縁結び観音が祀ってあり、数多の善男善女が奉納したミニこけしが並んでいる。名庭園と謳うだけあって石庭と苔庭は美しく、竜安寺と西芳寺をミックスしたような感じ、光宗君の霊屋三慧殿(さんけいでん)は二代藩主忠宗により建立されたもので、国の重文に指定されている。その内に納まる宮殿型厨子は豪華絢爛華麗、中には馬上束帯光宗像と殉死した7人の像が祀られている。厨子の図案には、支倉六右衛門常長が 西欧より持ち帰った様々な文様、例えば洋バラ、水仙、トランプ模様が随所に施されている。三慧殿は正保三年(1646)の建立以来、鎖国制度を施行していた徳川幕府の嫌疑を避けるべく開扉されることはなかったといわれる。伊達家350年の秘蔵と謳っているので公開されたのは近年のことと思われる。三慧殿の右奥には700年前の洞窟群があり、その内部には数多くの墓石や供養塔が立ち並ぶ。伊達家一族のものと思われるが幽玄な雰囲気の場所である。 建武五年(1338)記銘板碑、寺院Dsc08338には珍しい洋バラ園、樹齢700年のオンコ(イチイ)の大樹などを見物してから本堂の大非亭に至り、御本尊の木造聖観世音菩薩像(鎌倉時代の作、松島町指定文化財)にお参りする。大非亭は光宗君の江戸納涼の亭を正保四年(1647)海路で運び移築したもの、室内では数珠作り体験とて大勢の人が励んでいる。どこのお寺さんも最近は商売熱心である。冷たい麦茶をいただきながら円通院紹介ビデオを観る。ツアー旅行の駆け足拝観ではないのでマイペースでゆっくりできるのが良い。三箇所目は観瀾亭、併設の松島博物館と合せて拝観料は200円である。中里介仙の「大菩薩峠」の中で観瀾亭の襖絵が絶賛されているので大いに期待して入ったが、抹茶(400円)をDsc08340注文しないと座敷には上りにくい雰囲気、縁の外から透き見するだけではじっくり観賞することは難しい。この建物は元々京都伏見桃山城内の一棟で、文禄年中に政宗が秀吉から拝領し江戸品川の藩邸に移築したもの、それを二代藩主忠宗がこの地に更に移築したものである。東北唯一の純桃山建築と謳う建物は茅葺の質素なもの、但し、床の間、 襖、障子腰板を飾る極彩色の林木花卉と渓流図は壮麗、伊達家お抱えの狩野派絵師(一説では狩野法眼山楽の筆)の作と見られている。今日は蒸し暑いがさすがは納涼亭、海風が通り心地好い。松島博物館には伊達家の大名道具等ゆかりの品々が展示されている。正面入口は閉鎖されており観瀾亭側から入館するようになっているが、以前は独立していたのであろう。現在、特別展示として武田信玄自筆書状と伊達政宗自筆書状が陳列されているが全く読めない。内容の説明書きが欲しいところ、これでは全く有難味が伝わらない。他には青葉城本丸上段の間の金張付に描かれていたという「仙台城本丸障壁画鳳凰図」、旧瑞宝殿の「手水盤」、同じく「阿吽の龍」などの見所がある。ここには歴女も訪れず静かなものである。最後は、芭蕉と曾良が訪れた雄島へ行く。Dsc08378 雄島は、新古今和歌集に「立ち帰り またも来てみん 松島や 雄島のとまや 浪にあらすな」(藤原俊成)、「心ある 雄島のあまの 袂かな 目やどれとは ぬれぬものから」(後鳥羽院の宮女源師光の女)と詠まれているように、歌枕として昔から有名である。元禄二年五月九日(1689年陽暦6月25日)、芭蕉と曾良は塩釜から船で松島海岸に着き、瑞巌寺に詣でた後雄島を訪れている。当時は道心者や隠者が庵を結び修業に励んでいた松島随一の霊場も、今は多くの岩窟に佇む石仏や卒塔婆が往時の面影を伝えるのみ、訪れる人も少なくひっそりとしている。渡月橋を渡り、真珠稲荷、座禅堂(把不住軒)、頼賢の碑(国指定重要文化財)、芭蕉句碑「朝よさを誰まつしまぞ片心」、曾良句碑「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」、妙覚庵敷、見佛堂跡と一通り島内を巡る。現在は通俗的観光地のイメージが強い松島であるが、旧蹟を訪ねてみると当時は東北有数の大霊場だったことが判る。16:20松島駅に戻る。

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