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達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)

2011年10月23日(日) 拝観料300円を納めて頂いたパンフレットには、達谷窟毘沙門堂縁起として「凡そDsc01758 千二百年の昔、 悪路王・赤頭・高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は、坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清美関まで進んだが、大将軍が京を発するの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めた。延暦二十年(801)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を模ねて九間四面のDsc01767 精舎を立て、百八体の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし窟毘沙門堂(別名窟堂)と名付けた。翌延暦二十一年(802)には別当寺として達谷西光寺を創建し、奥眞上人(おうしんじょうじん)を開基として東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めた。降って前九年後三年の役の折には源頼義公・義家公が戦勝祈願の為寺領を寄進し、奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公は七堂伽藍を建立したと伝えられる。文治五年(1189)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その模様が『吾妻鏡』に記されている。中世には七郡の太守葛西家の尊崇厚く、延徳二年(1490)の大火で焼失するが、直ちに再建されたDsc01773。戦国時代には長坂家より別当が赴き、多くの衆徒を擁したが、天正の兵火に罹り、岩に護られた毘沙門堂を除き、悉く焼失した。慶長二十年(1615)伊達政宗公により毘沙門堂は建て直され、爾来伊達家の祈願寺として寺領を寄進されていた。昭和二十一年隣家から出火、御本尊以下二十数体を救い出したが毘沙門堂は全焼した。昭和三十六年に再建された現堂は創建以来五代目となる。内陣の奥に慶長二十年伊達家寄進の厨子を安置し、慈覚大師作と伝える御本尊・吉祥天・善膩師童子を秘仏として納める。云々」と記されている。先ずは毘沙門堂にお参りし、「ヲンベイシラマナソハカ」と御真言を唱える。ご本尊の吉祥天は33年ごとのご開帳、次は平成五十四年(2042)とのこと、もう拝めない。先の大震災で堂内の毘沙門天像は全て倒壊し、修理に4ヶ月も要したとのことである。その後は順路に従い、岩面大仏、弁天堂、奉行坊杉、鐘楼、不動堂、金堂の順で境内を一巡りする。

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