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吉野山如意輪寺

2012年4月24日(木) 宝物殿拝観料を納めて戴いた小冊子に如意輪寺沿革として、「大和国吉野山如意輪寺は、塔尾山椿花院(とうのうざんちんかいん)と言う。中千本の桜樹のあいだ、緑の松柏峰に連なる山腹にある当山を、陽春四月櫻花咲き乱れ香雲靉靆たる中に、あるいは、秋の紅葉錦Dsc09209布くとき、あるいはまた、枯れ木をおおう白雪の中に望見すると、大小の伽藍甍を配して連なり、けだし、天下の絶景これに勝ぐるものはない。現在、如意輪堂(本堂)、多宝塔、御霊殿、幽香楼、報国殿、宝蔵、鐘楼、茶所、庫裡等の建造物がある。そもそも当山は、延喜年間(901-923)文章博士三好善行の弟で、醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人の草創にかかり、後醍醐天皇吉野に行宮を定め給うや勅願所となった。正平二年(1347)楠木正行公一族郎党143人とともに参詣の事があった。正中以来寺運衰退したが、のち、慶安三年(1650)文誉鉄牛上人きたり、本堂を再興し、真言宗を改めて浄土宗とし、念仏を弘通し、ひたすらDsc09216御陵の守護に任じた。」とある。宝物殿には、鎌倉時代、源慶(運慶の高弟)作の重要文化財金剛蔵王権現木像、正行公辞世之扉などが展示されており、天井には御本尊如意輪観世音をモデルに描いた日本最大の油絵像、ねおがみの観音が描かれている。金剛蔵王権現像は桜の一木造りで蔵王権現の木像としては日本一と称されるもの、右手右足を挙げ天地の悪魔を降伏せんとする形相は眼光炯炯として辺りを威圧している。正行公辞世之扉は当時の如意輪堂の扉であり、「かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」と刻まれている。後醍醐天皇の次帝後村上天皇の正平二年十二月二十七日、四条畷の決戦に向かうに当たり、正行公は吉野の皇居に天皇と今生の別れを告げ、先帝の御陵に参拝の後、如意輪堂に詣で、髷を切って佛前に奉納、過去帳に姓名を残し、最後に鏃(やじり)をもって御堂の扉に上述の歌を書き残したものである。多宝塔まで登って中千本の緑の山々を眺めた後、近畿36不動尊の第30番霊場・難切不動尊にお参りしてから如意輪寺を後にする。
 

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