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さきたま古墳公園(行田市)

2018年1月6日(土) 正月は今日まで体調が勝れないこともあって家に沈殿していたが、このまま引き籠もるようになってはまずいと思い、天気も良いので行田市のさきたま古墳公園へドライブに行く。10:00出P1060010発、往きは遠回りになるが外環道と関越道を使い、12:30古墳公園第一駐車場到着。まずは日本一大きいと云う円墳の丸墓山古墳に上がる。6世紀前半の築造で主軸長105m、高さ18.9m。千葉県印旛郡の房総のむらにある日本第二の規模を誇る方墳、龍角寺岩屋古墳(一辺78m、高さ13m)が大きいと思っていたが、それよりも更に大きい。墳頂広場からは四囲の眺めが良い。浅間山、赤城山、榛名山など懐かしい群馬の山々に挨拶を送る。北側に降りて、国宝の「金錯銘鉄剣」が出土した前方後円墳の稲荷山古墳(5世紀後半、主軸長120m、後円部径62m)にも上がる。円頂に、竪穴式P1060016礫槨(れきかく)の埋葬の様子が復元されている。前方部から降りて、発掘調査中の二子山古墳の脇を通り、天祥寺の前を通り、愛宕山古墳を眺めて県道を渡る。博物館へ続く道の左手に「埼玉県名発祥之碑」が建つ。その隣に「埼玉県名の由来」と題する説明板が建ち、『明治四年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て明治九年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのP1060045が、埼玉郡であったことによる。埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡とみられ、当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書神亀三年(726)の山背(やましろ)国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に前玉神社二座」とある。ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。 昭和62年4月 埼玉県』とある。さらに、幸手市から移築した旧遠藤家住宅も見学してから、さきたま史跡の博物館に入館する。入館料は200円。国宝の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)と、現代の名工が6年間かけて復元した模作鉄剣とを眺め、同じく国宝の画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)を観覧する。剣身の両面に金象嵌で刻まれた115文字の読み下しは、『(表面)辛亥の年七月中記す。ヲワケの臣。上祖(かみつおや)、名はオホヒコ、其のP1060062児、タカリのスクネ、其の児、名はテヨカリワケ、其の児、名はタカヒシワケ、其の児、名はタサキワケ、其の児、名はハテヒ、(裏面)其の児、名はカサヒヨ、其の児、名はヲワケの臣。世々杖刀人(じょうとうじん)の首(かしら)と為り、奉事し今に至る。ワカタケル大王の寺(じ)、斯鬼(しき)の宮に在る時、吾天下を左治(さじ)し、此の百錬の利刀を造らしめ、吾が奉事の根源を記す也。』。武蔵国の豪族ヲワケがヤマト王権の中心である大王家に先祖代々仕えて国を治めるのを助けていた事が分かる。ビデオを見てから退館、瓦塚古墳、奥の山古墳、鉄砲山古墳を眺めながら前玉神社へ初詣に行く。

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