西国三十番札所 宝厳寺(ほうごんじ)

2009年11月1日(日) 大学卒業後40年目のクラス会は、北は郡山、南は徳島から12名の参加があり、 昨夜無事終わる。朝一、屋上の展望露天風呂へ入りに行き、琵琶湖東岸から昇る朝日を眺める。Dsc00368近江富士(三上山)のシルエットが美しい。朝食後、ホテルのバスでおごと温泉駅に送ってもらい、京都御所拝観へ行く皆と別れる。今日は竹生島にある西国三十番札所の宝厳寺にお参りするので、湖西線で船が出る近江今津へ向かう。近江舞子で電車を乗り継いで9:46近江今津着、みどりの窓口で竹生島クルーズ船往復割引キップを買う。クルーズ船が発着する今津港は駅から徒歩3分、湖に突き出た桟橋が1本あるだけの小さな港である。出船時刻まで間があるので近くの琵琶湖周航の歌資料館を見物して時間潰し、他には何もないのんびりした所である。「瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの 竹生島 仏のDsc00400御手に 抱かれて 眠れ乙女子 やすらけく」、資料館は琵琶湖周航の歌を作詞作曲 した小口太郎と吉田千秋を詳しく紹介している。出船時刻が近づくと団体旅行客を乗せた観光バスがやってきて港もようやく活気づく。ツアー客は今津から竹生島へ渡り、更に長浜へと湖を横断するコース、乗客を下ろしたバスは直ぐに長浜へ走り去る。10:50出航、ジェット船は湖上を滑るように進み、たちまち竹生島が近づく。琵琶湖八景の「深緑・竹生島の沈影」とは、琵琶湖に濃い影を落とす緑豊かな竹生島のこと、まさに湖上から眺める眼前の竹生島のことであろう。11:15竹生島到着、船着場から先30の参道に土産物店が数軒並ぶだけの小さな島で、全島が宝厳寺と都久夫須麻神社の霊域である。 参道の入口で拝観券を求め、165段の急な石段を登る。先ず最上部の宝厳寺の本堂である弁才天堂にお参りする。本尊の弁財天は安芸の厳島、相模の江ノ島とともに日本三弁財天の一つに数えられている。その後、傍らの納経所で御朱印をもらい、三重塔と片桐勝元手植えと伝わる樹齢400年のモチノキを眺めてから観音堂へ下る。観音堂は安土桃山時代の建築、正面入口の唐門は国宝に、観音堂本体は重文に指定されている。Dsc00412 ご本尊の千手千眼観世音菩薩にお参りし般若心経を唱える。御詠歌は「つきもひも、なみまにうかぶ、ちくぶしま、ふねにたからを、つむここちして」。重文の船廊下を渡り、同じく安土桃山時代の建築で国宝に指定されている都久夫須麻神社にも参拝する。祭神は市杵島姫大神、浅井姫命、宇賀神の三柱、湖水を支配する姫神様とのことである。12:10船着場に戻ると、ぽつりぽつりと雨が落ちてくる。12:30出船、13:00今津港に戻る。午前中は陽も出ていたのに天気は急激に下り坂、本降りになってきたので、予定していた石山寺や三井寺などの巡礼を諦め、近江今津発13:27の電車で京都に戻る。八条口側の新都ホテル京都に15:00チェックイン、最上階10階の部屋に入る。

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西国十九番札所 革堂(こうどう)

2009年10月31日(土) Dsc00333 六角通りを東下し寺町通りを左折すると革堂までは一本道、鳩居堂などの老舗や本能寺を覗きながらぶらぶら行くと、13:30革堂に着く。革堂の正式寺号は霊麀山(れいゆうざん)行願寺(天台宗)といい、寛弘二年(1005)一条天皇の勅願、行円上人の開山と伝わる。行円上人は若い頃狩猟を好み、ある日牝鹿を射殺して、無情を感じ仏門に入り、射殺した牝鹿の革を衣にして常に身に着け、市中を歩き布教に努めたという。故に上人を革聖、その寺を革堂と呼ぶようになったらしい。ここもまた街中の狭いお寺さん、早速本堂の御本尊、千手観世音菩薩にお参りする。「十方三世一切佛(じーほうさんしーいーしーふー)諸尊菩薩摩訶薩04 (しーそんぶーさーもーこーさー)摩訶般若波羅蜜(もーこーほーじゃほーろーみー)」。その後、納経所で納経帳にご朱印をもらう。「はなをみて、いまはのぞみも、こうどうの、にはのちぐさも、さかりなるらん」、革堂の御詠歌も唱える。境内を一回りといっても見所は山門前の石標くらい、13:20早々に引き揚げる。今日は西国観音霊場を四箇所巡礼できたので大満足、丸太町駅へ出て地下鉄で京都駅に戻り、大学卒後40年の節目のクラス会に参加するべく湖西線近江舞子行きに乗り、おごと温泉へ向かう。

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西国十八番札所 六角堂

2009年10月31日(土)  Dsc00321 第十七番の六波羅蜜寺は以前にお参りし御朱印を戴いているので今回はパス、東大路通りを八坂神社まで歩き四条通りに左折する。途中、四条河原町の蕎麦屋で腹ごしらえ、天ぷらそばを食べる。錦市場を抜けていくとそこは京都市民の台所、野菜や鮮魚、漬物、乾物など京都独特の食材を商う店が所狭しと軒を並べ、アメ横のような雰囲気である。12:30六角堂着、六角堂は正式寺号を紫雲山頂法寺といい聖徳太子の建立、御本尊は太子護持仏の如意輪観世音菩薩と伝わる。また、親鸞聖人が比叡山からこの堂に百日間参籠し、この菩薩の霊告によって浄土真宗を開いたことは広く知られている。03先ず本堂にお参りする。「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」、般若心経276文字を唱えてから納経所で御朱印を頂戴する。「わがおもふ、こころのうちは、むつのかど、ただまろかれと、いのるなりけり」、有りがたい。境内は狭く周囲をビルに囲まれ、優美な御堂が窮屈そうに見える。見所も嘗て下京の中心であった証の「へそ石」くらいしかないが、華道池坊発祥の地であり、境内と地続きで背後に高層の池坊ビルが建つ。隣接するWEST18ビルのエレベーターに乗り7階から六角形の屋根を眺める。13:05六角堂を辞し、第十九番の革堂(こうどう)へ向かう。

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西国十六番札所 音羽山清水寺

2009年10月31日(土) Dsc00272 天気が良過ぎるせいで五条坂、茶わん坂を登ると汗が出るほど。修学旅行生と観光客で早くも大混雑の清水寺門前に10:30到着。経堂特別公開中とのことで中に入ってみる。御本尊は宝冠釈迦如来であり、左右に文殊菩薩と普賢菩薩が侍る。お参りしてから、拝観料を支払い轟門をくぐる。寛永十年(1633)徳川家光によって再建された国宝の本堂にお参りする。御本尊は坂上田村麿奉納の十一面千手千眼観世音菩薩であるが、もちろん秘仏であり尊容は拝めない。「観世音 南無佛 與佛有因 與佛有縁 佛法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音02 念念従心起 念念不離心」、延命十句観音経を唱えてから、 清水の舞台へ出て京都の街を眺める。納経所へ回り、「まつかぜや、おとわのたきの、きよみづを、むすぶこころは、すずしかるらん」と御詠歌を唱えながら御朱印を頂戴する。それから境内を一巡り、いずれも国重要文化財に指定されている釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院の順にお参りし、音羽の滝で長い行列に並ぶ。ようやくお不動さんの浄水をいただき喉を潤した後、11:20清水寺を辞し第十八番の六角堂へ向かう。

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西国十五番札所 今熊野観音寺

2009年10月31日(土) 6:50京都駅八条口に到着、高速夜行バスのプレミアムシートは横3人掛けで思いのほかゆったり、Dsc00235 フルリクライニングで幅広の座席は飛行機のビジネスクラス並みにくつろげる。とりあえず駅ビル2階のカフェデュモンドで腹ごしらえし、目覚ましにホットコーヒーを飲む。今日は夕方から大津市雄琴温泉のホテルで大学のクラス会があるので、その前に京都市内の西国観音霊場を巡るつもり、番外も含めて七箇所あるが幾つ回れるか。先ずJR奈良線で東福寺駅へ出て第十五番の今熊野観音寺へ向かう。駅から1.3㎞を歩き、泉涌寺(せんにゅうじ)塔頭の今熊野観音寺に9:00到着、早速本堂にお参りする。御本尊は十一面観世音菩薩、秘仏であるが明日から一ヶ月間特別ご開帳を行うとのこと、お寺はその準備で忙しい。Dsc00237何でも西国三十三所のお寺では一千年来初めて全所が揃って、 順次ご本尊のご開帳を行っているとのこと、今年の八月から始まり来年の五月までの予定である。第十番の三室戸寺などは84年ぶりのご開帳とか。「むかしより、たつともしらぬ、いまぐまの、ほとけのちかひ、あらたなりけり」、御詠歌を唱えながら納経所で御朱印を戴く。弘法大師の霊水なる五智水を飲んでから、境内を一巡り、大師堂、西国三十三観音霊場の写し、医聖堂(多宝塔)にもお参りする。今熊野観音寺の正式な山号寺号は新那智山観音寺(真言宗泉涌寺派)、天長年中(824-833)嵯峨帝の勅願建立、開基は弘法大師と伝わる。9:40観音寺を辞し、途中同じく泉涌寺塔頭の戒光寺の丈六の釈迦如来にもお参り、東大路通りを歩いて第十六番の清水寺へ向かう。

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坂東十八番札所 立木観音

Dsc09680 2009年10月16日(金) 今日は妻に付き合い観音霊場巡り、二箇所目は中禅寺湖畔の立木観音(日光山中禅寺又は補陀洛山中禅寺)。ここにお参りするのも2006年7月9日以来二度目である。境内のご神木、カツラの巨樹の紅葉が美しい。中禅寺は、15年間に亘る苦行の末に男体山を開山した勝道上人により延暦三年(784)に創建されたと伝えられる。上人が湖岸のカツラの大木に立木のままに手刻したと伝わる、像高5.4mの千手観世音菩薩立像が御本尊である。本堂に上がり、伏し目の穏やかな表情をした千手観世音(国指定重要文化財)にお参りする。 観世音の左右には四天王像(左に持国天、Dsc09677増長天、右に広目天、多聞天)が配置されており、おごそかな雰囲気が漂う。「中禅寺 のぼりて拝むみずうみの歌の浜ぢにたつは白波」、ありがたい。本堂から五大堂に昇ると、不動明王を中尊として降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王が祀られている。境内に下りて波之利大黒天堂、愛染堂、鐘楼の順にめぐる。鐘楼に登り諸願成就の梵鐘を撞く。一つ撞いては父母祖先有縁無縁供養のため、二つ撞いては延命福寿のため、三つ以上は願の数々と昔から言い伝えられた有名な鐘とのこと、鐘の音は湖上に流れゆき周囲の山峡に余韻を引く。立木観音を後にし、中禅寺湖畔の紅葉を眺めるため半月山展望台へ向かう。

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坂東十九番札所 大谷観音

Dsc09665 2009年10月16日(金) 日光旅行の途中、宇都宮ICで高速を降りお参り。坂東三十三観音霊場巡りは2006年8月19日に結願しているが、妻が初めてなのでお付き合い、まあ何度足を運んでもよい。弘仁元年(810)弘法大師によって開基されたと伝えられる。江戸時代、天海僧正の法弟・伝海が中興開山となり、その後は日光輪王寺末となり、宇都宮城主奥平氏なども帰依し、寺格は完備して伽藍は広壮を極めたという。しかしながら、たびたびの火災で寺宝や記録など悉く烏有に帰したといわれる。昭和26年、第二次大戦の戦没者の霊を弔い、永遠の平和を願って建立された平和観音にお参りしてから大谷観音の山門をくぐる。Dsc09651 受付で拝観料を納め、本堂内で御本尊の石造千手観世音菩薩立像(大谷観音、平安時代初期の作、像高389㎝)に、そして脇堂内で石造伝釈迦三尊像(中尊は釈迦如来、左脇侍は観音菩薩、右脇侍は地蔵菩薩、平安時代末期の作、像高354㎝)、石造伝薬師三尊像(中尊は薬師如来、左右脇侍は菩薩と伝えられているが磨損著しく像名を判断できない。平安時代初期の作、像高115㎝)、石造伝阿弥陀三尊像(中尊は阿弥陀如来、左菩薩形、右比丘尼形の脇侍が立つ。鎌倉時代の作、像高266㎝)にお参りする。何れも大谷石に浮き彫りされており、日本最古の磨崖佛として国指定特別史跡・重要文化財に二重指定されている。「なをきくも めぐみおおやの かんぜおん みちびきたまへ しるもしらぬも」、ありがたい。宝物館で約11,000年前の縄文最古の人骨などを見学し、境内を一回りしてから中禅寺湖畔の立木観音へ向かう。

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鎌倉散策(金沢街道コース)

2009年9月10日(木) 朝一、6日の釣行記をブログにアップ、その後畑へ行って水撒き。10:30ホッキ飯のお握りを2個もらい鎌倉へ。P1100195 12:35鎌倉駅着、何時来ても鎌倉は人で一杯である。駅前からバスに乗って浄明寺で下車、早速拝観料を納め山門をくぐる。稲荷山浄明寺は臨済宗建長寺派に属し文治四年(1188)の建立、開基は源頼朝の重臣足利義兼(よしかね)で開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)である。鎌倉五山第五位の由緒ある寺で室町時代は境内に23の塔頭を持つ大寺院であったが、現在は衰退し、総門、本堂、客殿、庫裡が残るにすぎない。境内の最奥最上部の塔頭跡に洋風レストランが建ちイングリッシュガーデンまである。テラスでアイスコーヒーを飲んだが 何とも異質な空間、納経印を貰い早々に退散する。二箇所目は報国寺、P1100212名物の孟宗竹林の拝観料は200円である。功臣山報国寺も臨済宗建長寺派に属し建武元年(1334)の建立、開基は足利家時で開山は天岸慧広(てんがんえこう)である。竹林が有名で竹寺と呼ばれるらしいが、入ってみるとそれ程広いわけでもない。込み入り過ぎで少し間引いた方が涼感が出るのではと思うほど、そこにも竹林の奥に茶店があり繁盛している。鎌倉のお寺はどこも商売熱心である。坂東三十三観音霊場の第一番札所杉本観音は以前お参りしているのでパス、三箇所目の瑞泉寺へ向かう。 錦屏山瑞泉寺は臨済宗円覚寺派に属し嘉暦二年(1327)の建立、中興開基は足利基氏(もとうじ)で開山は夢窓疎石(夢窓国師)である。P1100259鎌倉公方(鎌倉府の長)の菩提寺として鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられた格式ある寺院で、鎌倉随一の花の名所といわれる。今は純白の芙蓉の花盛り、所狭しと咲いている。納経印をもらってから境内の藤棚の下で一服、持参のお握りを食べる。寺背の山の頂にある一覧亭に登りたかったが、登り口の池泉式庭園左奥の木戸は閉まっており立入禁止のようである。境内にある文学碑や歌碑をチェックする。大宅壮一や久保田万太郎の文学碑と並んで、 高崎市出身の歌人吉野秀雄の歌碑(「死をいとひ生をもおそれ人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ」)が建つ。P1100266以前高崎で暮らしていたとき、高崎市タワー美術館で開催中の「吉野秀雄生誕百周年企画展」を観賞した事(日記をめくると2002年12月6日)を懐かしく思い出す。「ふた方に浅間白根の噴きけむり直立つかもよゆく春の空」(吉野秀雄)、群馬県の山々が懐かしい。四箇所目は鎌倉宮、創建は明治二年(1869)と新しく、祭神は後醍醐天皇の皇子護良親王(大塔宮)である。社殿の後ろ手に親王最期の地と伝わる土牢が残るらしいがパス、市指定天然記念物のオガタマノキを見物し、拝殿でお参りしただけ で五箇所目の荏柄(えがら)天神社へ向かう。荏柄天神はP1100405長治元年(1104)の創建、祭神は菅原道真で古くは荏柄山天満宮とも称し、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並び日本三天神のひとつに数えられていたらしい。本殿は国の重要文化財である。石段を登りきると右手に市指定天然記念物のご神木、乳イチョウの巨樹が聳える。境内には尾崎迷堂の句碑も建つ。六箇所目は源頼朝の墓、小山の中腹に建つ。元は頼朝自身の持佛堂であった法華堂の跡で、現在の供養塔は薩摩藩第八代藩主島津重豪(しげひで)(1745-1833)が整備したものとされている。頼朝の墓所の右脇に「元祖島津豊後守忠久石塔道」と刻まれた石碑が建ち、その右手に山道が続いている。登ってみると崖の中腹に穿たれた岩窟の中に三つの墓が並んでいる。頼朝の側近で鎌倉府の政所初代別当の大江広元(1148-1225)、島津氏の祖島津忠久(生年不詳-1227)、大江広元の四男毛利季光(1202-1247)の墓である。傍らの墓碑に「奉寄進 玉垣兩所 石燈籠兩基 石盥盤一箇 安永八年(1779)己亥二月 薩摩中将源重豪」と刻まれている。 恐らく安永年中に頼朝の墓と一緒に整備されたものであろう。P1100415先祖墓を頼朝の墓より高処に造るなど、見様によってはこちらの方が立派である。七箇所目は宝戒寺、鎌倉一の萩の名所である。金龍山宝戒寺(天台宗)は建武二年(1335)の創建、開基は後醍醐天皇で開山は五代国師(円観慧鎮)である。到着したのが閉門10分前でゆっくり拝観はできなかったが、滅亡した北条一族の霊を弔うかのように境内一面に白萩が咲く。最後は鶴岡八幡宮、もう夕方の5時近くというのに修学旅行と思われる生徒がぞろぞろ参拝に訪れる。ここも白花の蓮池が美しい。今日は四ヶ寺、三社にお参りしてさすがに草臥れる。豊島屋本店でダイヤ糖を購入し17:16の成田空港行きに乗る。19:30帰宅、直ぐにうがいと手洗いを行う。

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鎌倉五山第五位 浄明寺

2009年9月10日(木) 山門前に立つ鎌倉市の説明案内板を読むと、「稲荷山浄妙寺は臨済宗建長寺派に属し、P1100192 源頼朝の伊豆挙兵以来の重臣・足利義兼が、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として文治四年(1188)に建立、行勇は源頼朝や政子が帰依した高僧である。鎌倉五山第五位の由緒ある禅宗の寺で、室町時代は境内に二十三の塔頭を持つ大寺院であったが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門、本堂、客殿、庫裡が残るのみ、茶室・喜泉庵と枯山水の庭は平成三年に復元されたものである。本堂の奥にある鎌足稲荷神社は鎌倉の地名の由来になったとされる」とある。受付で拝観料を納め、本堂にお参りする。さすがに立派な建物である。枯山水の庭を覗いてから境内を奥へ登っていくと、最上部の塔頭跡に洋館が建ちイングリッシュガーデンまである。そこは浄明寺が経営するレストランであり、中に入って庭を眺めながらアイスコーヒーを飲む。何とも異質な空間、精進料理なら理解できるが、昼から般若湯(ワイン)を飲んで食事をしている婦人連が多い。さすがは鎌倉、寺院商売もここまでやるかと感心する。和風庭園もありシモツケソウやハギも若干咲いてはいるが、他には特に見るべきものもなく、納経印を戴いて早々に退散する。

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松島散策(円通院・観瀾亭・雄島)

2009年8月28日(金) 榴ヶ岡駅11:39の電車で松島散策へ。松島駅で降り真っ直ぐ円通院へと思ったが、その手前の瑞雲峰天麟院に立ち寄る。伊達政宗の長女五郎八(いろは)姫の菩提寺であり、65歳から亡くなるまでの3年間を過したお寺である。三陸三十三観音霊場第二番札所でもあるが拝観は無料、今時奇特で有り難い。臨済宗妙心寺派に属し御本尊は江戸時代中期作の釈迦如来坐像である。Dsc08288境内で総高6m、イタリア産大理石製の子育水子地蔵尊を拝観してから、墓地の石段を登り最奥の高台に建つ五郎八姫の霊屋(墓所)にお参りする。傍らの説明には「万治元年五月八日没、享年六十八歳、法諡を天麟院瑞雲全祥尼大姉と号す」とあるが、寛文元年(1661)の誤りではないか。徳川家康の六男である高田藩六十一万石の領主松平忠輝の正室に納まりながら、忠輝改易に伴い離縁され、後半生は仙台近郊で暮らしたという薄幸の佳人である。 説明の続きを読む。「寛文三年(1663)伊達家四代綱村によって霊屋が創建され、瑞巌寺百世天麟院開山洞水和尚の書になる『定照』の扁額が掲げられた。明治二年霊屋が解体、明治二十二年十四代伊達宗基伯爵の墓銘になる墓が建立され、仮霊屋として現在に至る」。こんな所に五郎八姫の墓所があったとは・・・、燈台下暗しというか迂闊にも今日初めて気がつく有様、装飾の殆どない仮霊屋は質素で地味であり、瑞巌寺にある愛姫(めごひめ)の絢爛豪華な霊屋とは雲泥の開きがある。五郎八姫は亡くなってからも幸薄い。せめてもの慰めは側に聳える樹齢350年というハリモミの大樹、霊屋創建時に植えられたもので松島町の天然記念物であり、Dsc08284姫の廟所を護るかのように立ち続ける。墓地の左手に更に石段があり、 それを登った高台には宮城県指定重要文化財の日吉山王神社が建つ。由緒書きには、「天長五年(828)慈覚大師が延福寺(瑞巌寺のこと)創建のとき、その護神として近江坂本の山王社の分霊を勧請し、天竜庵(五大堂向いの小高い丘)のほとりに祀ってあったものを、寛永十七年(1639)時の瑞巌寺住職雲居禅師によって現在の地に祀られたが、宝永八(1711)年とその後数回にわたり修復が行われた。社殿は江戸時代中期の秀作とされ、昭和43年春、本殿拝殿が修理された。主祭神大山咋神(おほやまくひのかみ)、相殿に国常立神(くにとこたちのかみ)、日仲彦神、伊弉神を祀る」とある。氏子に地元の有力者が多いようで今も修復工事の最中である。お参りしてから円通院へ。Dsc08296 臨済宗妙心寺派円通院は三陸三十三観音第一番札所であり、伊達政宗の嫡孫光宗君の菩提寺、松島の名庭園として有名である。瑞巌寺は何回も拝観したが円通院に入るのは初めてである。拝観料は300円、山門をくぐると直ぐ左手に縁結び観音が祀ってあり、数多の善男善女が奉納したミニこけしが並んでいる。名庭園と謳うだけあって石庭と苔庭は美しく、竜安寺と西芳寺をミックスしたような感じ、光宗君の霊屋三慧殿(さんけいでん)は二代藩主忠宗により建立されたもので、国の重文に指定されている。その内に納まる宮殿型厨子は豪華絢爛華麗、中には馬上束帯光宗像と殉死した7人の像が祀られている。厨子の図案には、支倉六右衛門常長が Dsc08301西欧より持ち帰った様々な文様、例えば洋バラ、水仙、トランプ模様が随所に施されている。三慧殿は正保三年(1646)の建立以来、鎖国制度を施行していた徳川幕府の嫌疑を避けるべく開扉されることはなかったといわれる。伊達家350年の秘蔵と謳っているので公開されたのは近年のことと思われる。三慧殿の右奥には700年前の洞窟群があり、その内部には数多くの墓石や供養塔が立ち並ぶ。伊達家一族のものと思われるが幽玄な雰囲気の場所である。 建武五年(1338)記銘板碑、寺院には珍しい洋バラ園、樹齢700年のオンコ(イチイ)の大樹などを見物してから本堂の大非亭に至り、御本尊の木造聖観世音菩薩像(鎌倉時代の作、松島町指定文化財)にお参りする。大非亭は光宗君の江戸納涼の亭を正保四年(1647)海路で運び移築したもの、室内では数珠作り体験とて大勢の人が励んでいる。どこのお寺さんも最近は商売熱心である。Dsc08338冷たい麦茶をいただきながら円通院紹介ビデオを観る。ツアー旅行の駆け足拝観ではないのでマイペースでゆっくりできるのが良い。三箇所目は観瀾亭、併設の松島博物館と合せて拝観料は200円である。中里介仙の「大菩薩峠」の中で観瀾亭の襖絵が絶賛されているので大いに期待して入ったが、抹茶(400円)を注文しないと座敷には上りにくい雰囲気、縁の外から透き見するだけではじっくり観賞することは難しい。この建物は元々京都伏見桃山城内の一棟で、文禄年中に政宗が秀吉から拝領し江戸品川の藩邸に移築したもの、それを二代藩主忠宗がこの地に更に移築したものである。東北唯一の純桃山建築と謳う建物は茅葺の質素なもの、但し、床の間、Dsc08340 襖、障子腰板を飾る極彩色の林木花卉と渓流図は壮麗、伊達家お抱えの狩野派絵師(一説では狩野法眼山楽の筆)の作と見られている。今日は蒸し暑いがさすがは納涼亭、海風が通り心地好い。松島博物館には伊達家の大名道具等ゆかりの品々が展示されている。正面入口は閉鎖されており観瀾亭側から入館するようになっているが、以前は独立していたのであろう。現在、特別展示として武田信玄自筆書状と伊達政宗自筆書状が陳列されているが全く読めない。内容の説明書きが欲しいところ、これでは全く有難味が伝わらない。他には青葉城本丸上段の間の金張付に描かれていたという「仙台城本丸障壁画鳳凰図」、旧瑞宝殿の「手水盤」、同じく「阿吽の龍」などの見所がある。ここには歴女も訪れず静かなものである。最後は、芭蕉と曾良が訪れた雄島へ行く。Dsc08378 雄島は、新古今和歌集に「立ち帰り またも来てみん 松島や 雄島のとまや 浪にあらすな」(藤原俊成)、「心ある 雄島のあまの 袂かな 目やどれとは ぬれぬものから」(後鳥羽院の宮女源師光の女)と詠まれているように、歌枕として昔から有名である。元禄二年五月九日(1689年陽暦6月25日)、芭蕉と曾良は塩釜から船で松島海岸に着き、瑞巌寺に詣でた後雄島を訪れている。当時は道心者や隠者が庵を結び修業に励んでいた松島随一の霊場も、今は多くの岩窟に佇む石仏や卒塔婆が往時の面影を伝えるのみ、訪れる人も少なくひっそりとしている。渡月橋を渡り、真珠稲荷、座禅堂(把不住軒)、頼賢の碑(国指定重要文化財)、芭蕉句碑「朝よさを誰まつしまぞ片心」、曾良句碑「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」、妙覚庵敷、見佛堂跡と一通り島内を巡る。現在は通俗的観光地のイメージが強い松島であるが、旧蹟を訪ねてみると当時は東北有数の大霊場だったことが判る。16:20松島駅に戻る。

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山寺(宝珠山立石寺)

2009年8月27日(木) 8時半過ぎにマンションを出て仙台駅9:37発の山形行きに乗る。10:30山寺駅着、まだ夏休みなのかカップルや関西訛りの旅行者が多い。駅のホームから山寺の全容を眺めることができる。Dsc08183 又、北面白山が東の空に形の良い姿で聳えている。宝珠橋を渡って門前町を行き、石段を昇ると根本中堂(国指定重文)の前に出る。招福布袋尊をなでてから根本中堂(本尊は木造薬師如来坐像)にお参りする。山寺は宝珠山立石寺(ほうじゅさんりっしゃくじ)といい、貞観二年(860)清和天皇の勅願によって慈覚大師が開いた天台宗の古刹である。根本中堂は延文元年(1356)初代山形城主斯波兼頼が再建した入母屋造り五間四面の建物で、ブナ材の建築物としては日本最古といわれる。芭蕉の門人たちが嘉永六年(1853)に建てた句碑、「閑さや 巌にしみ入 蝉の聲」を確かめ、その奥の清和天皇の供養塔(多宝塔)を眺める。山寺に無数にある石塔のなかで最も古いものだそうである。出羽国山寺総鎮守である日枝神社にもお参りし、樹齢1,100年と推定されるご神木の大銀杏を眺め、その側に立つ高浜虚子、Dsc08224年尾の親子句碑を吟味する。「いてふの根 床机斜に 茶屋涼し」(虚子)、「我もまた 銀杏の下に 涼しくて」(年尾)、なるほど。御神輿殿、こけし塚、亀の甲石など見所が多く、なかなか山門に辿り着けない。一般の人が写経できる常行念仏堂と、除夜の招福の鐘として知られる鐘楼を右手に見ると漸く山門である。そこから奥の院までの石段は八百余段、いよいよ登りにかかる。まず拝観料300円を納め山門をくぐる。姥堂、笠岩、四寸道、せみ塚、弥陀洞に立ち寄りつつ高度を上げていく。弥陀洞は見る人が見れば丈六の阿弥陀如来のお姿に見えるとのこと、色々な角度から暫らく眺めてみたがとうとう分らず、まだまだ信心が足りないようである。開山堂・五大堂と奥の院との分岐に出て先ずは開山堂・五大堂へ。開山堂には慈覚大師の木像が安置されているが扉が閉まっており内部は窺えない。Dsc08222 開山堂の左手の大岩上に建つ赤い小さな御堂は納経堂で山内で最も古い建物、その真下に慈覚大師が眠る入定窟があるらしい。開山堂の右手、石段を昇った高処が五大堂、本来は五大明王を祀る御堂であるが現在は単なる見晴台、中はがらんどうである。但し、山寺随一の展望台の名に恥じず、立石沢に沿う集落とその奥の奥羽山脈主脈(南面白山、小東岳、糸岳か)の眺めが良い。分岐へ戻って奥の院へ。途中に性相院(本尊:阿弥陀如来)、金乗院(本尊:延命地蔵菩薩)、中性院(本尊:阿弥陀如来)、華蔵院(本尊:聖観世音菩薩)の4支院がある。江戸時代までは12の塔頭支院があったが、明治維新時の廃仏棄釈で衰退し、4支院にまとめたらしい。中性院のおびんづる様をなで、向かい側に建つ最上Dsc08247義光霊屋を見てから、最上部に建つ奥の院如法堂と大仏殿にお参りする。 奥の院の右手に尚山上へ続く道があるが、立入禁止となっている。大仏殿の本尊は金色に輝く堂々たる丈六の阿弥陀如来坐像である。昔この御堂はなかったように思うが、いつ頃建立されたものであろう。如法堂は明治五年の再建で、本尊は慈覚大師が中国で修行中に持ち歩いたという釈迦如来と多宝如来である。最後に奥の院の手前左手の台地上に建つ華蔵院にお参りする。入口右手の大岩の胎内に国指定重要文化財の三重小塔が納められている。相輪に「羽刕立石寺谷屋 石黒参河 立者静運 十穀静允作 榮壽栄金 永正十六己卯年六月吉日」の銘があり、本尊は大日如来とのこと。永正十六年は1519年に当たるので、約500年前の室町時代末期の建立である。総高160㎝ほどの小さな三重塔であり、朱色鮮やかなのは昭和54年(1979)に解体修理が施されたためである。華蔵院は山寺の中で唯一聖観世音菩薩を本尊に祀るお寺、般若心経を唱えながらお参りする。山上を吹き抜ける風が涼しい。下山は一気呵成、幾つもの岩窟が見える釈迦ヶ峰は転落危険のため修行者以外の立入は禁止、そこにある釈迦堂や六観音、地獄谷(行者戻)、胎内堂、Dsc08264胎内くぐりなどには近づけない。「みちのくの仏の山のこごしこごし 岩秀に立ちて汗ふきにけり」(斉藤茂吉)の気分は味わえない。 最後に、「ほろびゆく もの美しき 遠き世の 供養の文字乃 苔にやつるも」(素堂)の歌碑を見て、抜苦門をくぐり山寺を下りる。山寺駅に着くと12:58の電車にタッチの差で間に合わず、次の電車まで1時間もある。時間潰しに駅前にある山菜精進料理の店おのやに入り、元祖いもこそばを食べる。温かい蕎麦に山形名物の芋煮をトッピングしたもので1,200円也、いわゆる田舎そばであるが別々に食べた方が美味しいかも。おのやの前身は「東泉坊」なる宿坊で松尾芭蕉も泊まった由緒ある宿とのこと、今はレストランとともに山寺ペンションを経営している。それにしても今日はご朱印帳を忘れたために、根本中堂、4支院、本坊の6箇所の御朱印を受け損なう。惜しいことをしたものである。15:00仙台着。

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北口本宮 富士浅間神社

Dsc07912 2009年8月15日(土) 今日はきのこ観察を兼ねた山歩き、久し振りだったせいもあり、富士吉田駅からスバルライン五合目へ上るのに7時間半もかかる。最後はバテバテのへとへと、標高差1,500mの登りはやはりしんどい(自惚山人ノオト「440.吉田口登山道」参照)。登る前に登山道入口にある北口本宮・富士浅間神社にお参りする。御祭神は、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、天津彦彦火瓊瓊杵命(あまつひDsc07918こひこほのににぎのみこと)、大山祇命(おおやまつみのみこと)の三柱であり、御由緒には「日本武尊当地御通過に際り親しく富士の霊峯を御遥拝になった。その由縁を以て祠宇を創建その蹟を大塚丘という。後延暦七年(788年)甲斐守紀豊庭現地に社殿を建立、現在の 本殿は元和元年(1615年)鳥居土佐守造営、幣殿、拝殿、神楽殿、手水舎、神門等は江戸小伝馬町の人、村上光清師の首倡に因り享保十八年起工し、元文三年(1738年)に総て竣成された。大正十三年保存会によって各所修造、屋根は銅板に葺替、本殿は桃山建造物の首位なりとして昭和二十八年三月国重要文化財に指定さる」とある。社殿の左右に天を突いて聳えるご神木、富士太郎杉と富士夫婦檜の両巨樹も一見の価値がある。

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ビール神社(鹿嶋神社)

2009年5月25日(月) 日本全国に神社はDsc06285星の数ほどあるが、麦酒神社を名乗るのは恐らくここだけであろう。 所在地は宮城県桃生郡北上町(現・石巻市)十三浜字白浜、北上川が追波湾に注ぐ河口の白砂青松の地に鎮座する。仙台から70㎞、約2時間の道程である。北上山地南端の翁倉山と硯上山に登る前に、10年ぶりにお参りする。正式な社名は鹿嶋神社であるが、ビール神社と呼ばれるようになった由来が北上町観光協会の案内板に記されている。曰く、「当白浜地区に鎮座の鹿嶋神社は、室町時代(推定)に社守佐藤家の氏神として祀られ、今日に至っては当地区の産土様として篤く信仰されている。例祭には、契約講のDsc06281 人々が麦酒を作ってお供えするという全国的にも珍しい風習が終戦まで続いた。この麦酒をお供えするという風習は、いつ頃から起ったのかわからないが、地区内では次のような言い伝えがある。『ある年、大飢饉になりお米で作ったお神酒をお供えすることができず、麦で作ったお神酒をお供えした。やがてお米が収穫された年に、再びお米のお神酒をお供えしたら、その年には不漁不作のうえ、悪病が流行り病人が出る始末となったので、再び麦酒を作ってお供えするようになったといわれている』。当地区では、この言い伝えから例祭や諸祈願祈祷の際はビールをお供えするという風習が固く守らDsc06282れてきた。その後、酒造法が制定されたことで麦酒から市販のビールに変え、今日に至っている。 鹿嶋神社は、このような由来から地区の人々にビール神社と呼ばれて親しまれている。この神社には武甕槌神(たけみかづちのかみ)が祀られている。このことから武運長久の神様として勢いがあり、武道の必勝や商売繁昌・無病息災等で多くの人が訪れている」と。海水浴シーズンの前とあって観光客の姿はなく、集落は眠っているかの様に静かである。鹿嶋神社にも他にお参りする人の姿はなく、境内はひっそり閑と静まり返る。10年前に比べると、社殿も聊かうらぶれた感じがする。日本に4大ビール会社があり、県内に所属事業所も数多あるのだから、全国唯一のビール神社を、もっと盛り立てるような大口寄進があってほしいもの、そう願いながら鹿嶋神社を後にする。

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佐野厄除け大師

2009年4月10日(金) 宮城村Dsc05462 (現前橋市)の赤城南面千本桜の見物を終え、桜川市磯部へ向う途中で佐野厄除け大師に立ち寄る。 厄年とか風水には全く無関心であったため、これまで何度も側を通りながら参詣する機会を逸し、今回が初めてである。境内に入ると、黒塗りの鐘楼に吊り下げられた黄金色の梵鐘が目に飛び込み度肝を抜かれる。この金銅(きんづくり)大梵鐘は、元三慈恵大師(第十八代天台座主、良源上人(912-985))の一千年遠忌を記念して建立されたもので、製作者は人間国宝の香取正彦氏、直径が1.15m、重量が約2tあり、金の梵鐘としては日本一大きい。佐野厄除け大師は正式の寺号を春日岡山転法輪院惣宗官寺(かすがおかやDsc05471まてんぼうりんいんそうしゅうかんじ)といい、天慶七年(944)藤原秀郷公が佐野春日岡(現在の城山公園)の地に春日明神の社殿とともに一寺を建立し、奈良の僧、宥尊(ゆうそん)上人を招いて開山したのが始まりとされる。平安時代末期の保元・平治の頃には一時衰退したが、正応年間(1288-1292)になって比叡山の僧俊海が信徒を募り、藤原一族および北条一門の有志とはかって、鎌倉幕府九代執権北条貞時を動かし、永仁五年(1297)復興完成した。その時宗派も従来属していた法相宗から天台宗に替わっている。慶長七年(1602)幕命により、秀郷公から数えて30代の佐野信吉公が居城唐沢城を春日岡に移すにあたり、 現在地に移転している。徳川時代には御朱印五十石を拝領し、寺社奉行も置かれ、三代将軍家光公も参拝するなど徳川幕府との縁故が深い。ご本尊は厄除け元三慈恵大師(御本地・如意輪観音)である。本堂にお参りしてから境内を一巡りする。境内には開創一千五十年を記念して建立されたパゴタ供養塔、先駆的社会運動家として有名な田中正造翁の墓、県指定重要文化財の東照宮社殿などがある。パゴタ供養塔は、三界萬霊有Dsc05456縁無縁の霊、戦争災害死者、事故横難死者、水子霊等を供養する功徳莫大な聖衆倶会楽の塔であり、四メートルの方形基壇に六つの相輪と一つの塔身水煙をつけた宝珠からなり高さ八メートルを有する。相輪は六道輪廻を塔身上部は天をあらわし、そこに位置する宝珠は深く佛を信じる魂そのものである。設計製作は二科会会員の田村了一氏、基壇は古代インドのサーンチー遺跡をアレンジ・デザインしている。田中正造翁の墓前には石川啄木の歌碑が建つ。「夕川に葦は枯れたり血にまとう民の叫びのなど悲しきや」、足尾銅山鉱毒被害による渡良瀬川農民の窮状を明治天皇へ直訴した翁の行動に感動し、盛岡中学三年在学時の啄木が詠じた一首である。また、東照宮社殿は、元和三年(1617)三月二十七日、徳川家康公の御霊が静岡県久能山より日光遷座の途中当山に一泊、この仏縁により諸大名の寄進によって造営されたものである。

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日向見薬師堂

2009年4月9日(木) 群馬県中之条町四万温泉日向見地区にある薬師堂、重要文化財に指定されている県内唯一の寺院建築であり、Dsc05498 現存の寺院建築として県内最古のもの。薬師堂の前に町指定重要文化財のお籠堂が建つ。それぞれの案内板には、「国指定重要文化財 薬師堂一棟 明治四十五年国宝指定 昭和二十五年重要文化財指定 附宮殿一棟、扁額:日向山定光寺一札、棟札:慶長三年十一月吉日銘(1598年)他三枚 薬師堂の由来:寺伝によると堂は永延年間(987-989)吾妻郡の地頭塩谷日向守定光の薬師堂としてここより約10キロメートル下流の折田村に建立されその後享禄天文の頃(1528-1555)上杉定政により湯前薬師として現在地に移された 堂の建立:この堂は慶Dsc05504長三年(1598)に再建されたもので領主真田伊豆守信幸の武運長久を祈願して伊勢国山田の鹿目喜左衛門という人が建てたものである  構造及び特色:三間四面の唐様建築で必要最少限の材料を用い簡素の中にも優美さを保つ建築である 板蟇股等室町末期の建築様式が残されている」、「国指定重要文化財 薬師堂 この建物は、一重の寄棟造で屋根を茅葺としています。規模は正面、側面とも三間です。前方二間は外陣、後方一間は内陣とし、その境に格子戸を嵌め込んでいます。建築様式は和様と禅宗様の折衷様式です。方一間の鏡天井を支える内部架構、Dsc05500出組の組物、粽の柱、柱頭を連結する頭貫、正面出入口の桟唐戸等各所に禅宗様の様式を見ることができます。(後略) 平成九年三月 文部省・群馬県教育委員会・中之条町教育委員会」、 「町指定重要文化財 薬師堂のお籠堂 (指定)平成十二年三月二十七日 (所在地)中之条町大字四万四三七一 薬師堂の前にあるこのお籠堂は、明治二十二年の四万村誌によれば、慶長十九年(1614)に建てられたものである。間口約4.79m、奥行き約3.66mで中央に幅約1.01mの通路が設けられている。この通路の両側は現在ガラス戸となっているが、はじめは戸や障子Dsc05503 などの仕切りもなく開放されたものであった。このお籠堂には、湯治客(温泉に入って療養する人)が病気をなおすために定められた日数、すなわち一昼夜、七日、百日などの期間、心身を清めお籠もり堂に閉じこもってお経を読んだり、南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏を唱えたり、また、断食、水垢離などの荒行をすることもあったという。いまは通路の両側にガラス戸を建て、堂の用具を保管したり、参拝者にお守りなどを授ける場所としている。昭和六十年(1985)に解体修理を行い現在に至っている。建築年代と、構造上中央を通路にしたものは数少なく貴重な建物である。 平成十六年三月 中之条町教育委員会」とある。傍らの鉦をひとつ敲いてからお参りする。表戸から内部を隙見すると、内陣の厨子の中に金銅色の小さな薬師如来像が安置されている。この厨子も天文六年(1537)に造られたもの、この日向見薬師堂とお籠堂は、温泉と結びついた薬師信仰を物語る貴重な建造物である。  

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施無畏山宝樹院小山寺(富谷観音)

2009年4月3日(金)  Dsc05211茨城県桜川市の富谷山に登る前に、山腹に建立されている富谷観音に参詣する。 茨城県教育委員会及び桜川市教育委員会の案内板には、『当山は、施無畏山宝樹院小山寺(おやまじ)と称し、通称、富谷観音と呼ばれている。天平七年(735)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建し、自作の一丈六尺の鉈彫り十一面観世音菩薩像を本尊にしたと伝えられている。始め長福禅寺と号したが、その後慈覚大師が東北巡錫の際に七堂伽藍を整え、鎌倉時代初めに小山寺と改められた。南北朝のころ、結城、多賀谷、大野の諸氏が堂塔を修造し、江戸時代現在の規模に改修された。Dsc05292笠間城主藤原時朝が弘長三年(1263)小山寺へ寄進した木造大日如来坐像(現山形県寒河江市慈恩寺収蔵)の胎内経に、「常陸国笠間郡小山寺大檀那・・・」の奥書がある。国指定重要文化財(旧国宝)の小山寺三重塔は、関東以北最古の建造物といわれ、 その相輪宝珠の刻銘に寛正六年(1465)、下妻城主多賀谷朝経が大檀那となり、大工棟梁宗阿弥家吉らにより造営されたとあり、和様の形式を基調とし、 唐様を交え細部の装飾に見るべきものがある。室町時代の造りとしては優れたものの一つで、ことに内部の仏壇は稀に見る傑作である。 また、本尊十一面観音菩薩坐像は、鉈彫り様式による欅材一木造で、平安時代の作と伝えられ、全国的に見てこれほどの大作は珍しく、県としても貴重な存在であり、県指定文化財となっている。そのほか、小山寺本堂、仁王門、鐘楼、木造毘沙門天立像、木造不動明王立像(以上茨城県指定文化財)、木造釈迦涅槃像、小山寺の大杉(以上桜川市指定文化財)など、堂内外に数多くの貴重な仏像や建造物がある。云々』とある。Dsc05301確か羽黒山の国宝五重塔は応安五年(1372)の再建とされているので、ここの三重塔よりも古いし、本尊の十一面観音菩薩像が行基作で、脇侍の不動明王像が慈覚大師の作、毘沙門天像が運慶の作と称しているのも疑わしい。しかしながらお経と同様有り難ければそれで良く、内容の細かい詮索は野暮というもの。樹齢700年のご神木、小山寺の大杉を仰ぎ見てから鐘楼に登り鐘をひとつ撞く。三重塔をじっくり見物し、四柱造り朱塗りの立派な本堂にお参りしてから、富谷山に登るべく小山寺を後にする。 

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手児奈霊堂(てこなれいどう)

2009年3月30日(月)  手児奈霊堂は手児奈の墓所と伝えられる地に建てられた御堂である。真間山弘法寺のDsc05147七世日与上人が文亀元年(1501)、手児奈の霊を祀る霊堂として世に広めたという。 弘法寺の一堂宇であるが、境内から少し離れた門前町の一隅に建つ。手児奈は下総国の国府(現市川市国府台)近くに住んでいたという伝説の美女である。美しいゆえに多くの男性から求婚され、しかも自分のために人びとが争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に自ら身を沈めたと伝えられる。参道入口に建つ手児奈霊神碑は寛政七年(1795)、澤田嘉右衛門氏の奉納である。今では縁結びと安産の神様としてお参りされているようで、境内に沢山の絵馬が奉納されている。中には「一流のホステスになれますように!」などと、Dsc05148手児奈霊堂には相応しからぬ願い事もあるが・・・。奈良朝前期の万葉歌人、高橋連蟲麿(たかはしのむらじむしまろ)や山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)もこの地を訪れて手児奈を偲ぶ歌を次のように詠んでいる。勝鹿(かづしか)の真間娘子(ままのおとめ)を蟲麿の詠む歌一首、「鶏が鳴く 吾妻の国に 古に ありける事と 今までに 絶えず言ひ来る 勝鹿の 真間の手児奈が 麻衣に 青衿着け 直さ麻を 裳には織り著て 髪だにも 掻きは梳らず 履をだに 穿かず行けども 錦綾の 中につつめる 斎児も 妹に如かめや 望月の 満れる面わに 花の如 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るが如 水門入に 船漕ぐごとく 行きかぐれ 人のいふ時 Dsc05152いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒ぐ湊の 奥津城に 妹が臥せる 遠き代に ありける事を 昨日しも 見けむが如も 思ほゆるかも」(万葉集巻9-1807)、 反歌 「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(巻9-1808)。勝鹿の真間娘子の墓を過ぐる時、赤人の作る歌一首、「古に 在りけむ人の 倭文幡の 帯解きかへて 伏屋立て 妻問しけむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき言のみも 名のみもわれは 忘らゆましじ」(巻3-431)、反歌 「われも見つ人にも告げむ葛飾のままの手児奈が奥津城處」(巻3-432)、「葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ」(巻3-433)。一度万葉集をじっくり読まねばなるまい。(この項は、NHKブックス49、木俣修著「万葉集・時代と作品」を参考にしました) 

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真間山弘法寺(ままさん・ぐほうじ)

2009年3月30日(月) 天気が良いDsc05163ので家族3人でお花見に出かける。行き先は市川市真間の弘法寺、境内にある伏姫桜(ふせひめざくら)が満開なそうな。 自宅から17㎞、弘法寺は住宅地に囲まれた高台に建つが、アクセス道路が狭く辿り着くのに四苦八苦。20台位の駐車スペースは当然満車であったが、帰る車があって辛うじて後釜に納まる。お目当ての伏姫桜は樹齢400年を越すシダレザクラの古木、樹勢今なお盛んで枝張りも見事である。カメラを手にした見物客が引きもきらず、平日とは思えぬ人出、それを目当てに沢山の露店も並ぶ。市川市教育委員会の説明板には、「弘法寺は、奈良時代、Dsc05170行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりであり、その後平安時代、弘法大師が七堂を構えて真間山弘法寺とし、さらにその後天台宗に転じたとされる。鎌倉時代、この地に及んだ日蓮の布教を受けて、建治元年(1275)、 時の住持了性(りょうしょう)が日蓮の弟子で中山法華経寺の開祖日常(にちじょう)との問答の末やぶれ、日蓮宗に転じ、日常の子で六老僧の一人日頂(にっちょう)を初代の貫首としたと伝える。鎌倉末期の元亨三年(1323)には千葉胤貞により寺領の寄進を受け、延文三年(1358)の日樹置文(にちじゅ・おきぶみ)によれば葛飾郡一帯や千田庄(多古町)に多くの寺領や信徒を擁していたことが知られる。また室町・戦国時代には山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展し、賑わいをみせていた。天正十九年(1591)、徳川家康より朱印地30石を与えられ、元禄八年(1695)には水戸光圀も来訪したと言われる。明治二十一年(1888)の火災のため諸堂は焼失してしまったが、明治二十三年(1890)に再建され、Dsc05138現在に至っている。境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天をまつる太刀大黒尊天堂、 水戸光圀が賞賛して名づけたといわれる遍覧亭、袴腰の鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある」とある。伏姫桜を堪能してから境内を一巡し、太刀大黒尊天堂や里見龍神堂に参詣する。更に、伝説の美女、真間の手児奈(てこな)を祀る山麓の手児奈霊堂にもお参りして引き揚げる。帰路、イオン柏ショッピングセンターに寄り、インド料理専門店のガネーシャ・ガルでカリーランチの昼食。

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鷲子山上神社

2009年3月15日(日) 山方町のDsc04938盛金富士登山の帰り道、茨城・栃木県境にある鷲子山(とりのこさん)まで足を延ばし、 山頂に建つ鷲子山上神社にお参りする。山頂直下の駐車場に車を駐め、先ず中峰に建つ本宮にお参りする。左手の石段を登ると、社殿の前に金運不苦労柱が建ち、その周りを四神の御柱が取り囲む。更に四神の御柱が支える台座に日本一の大フクロウ(平成20年5月建立)が祀られている。どうやら鷲子山上神社ではフクロウを不苦労と表し、金運幸福を招く神様のお使いとしているようである。大フクロウ以外にも色々な形と大きさのフクロウが境内に奉納されている。指示通り、備え付けの棒で金運不苦労柱を3回たたき抱きかかえる。社殿の前へ進み、お白石(福石)を2個取って福運びフクロウの籠に入れてからお参りする。那珂川町が立てた説明板「日本の自然百選 鷲子山」によると、『山頂には鷲子山上神社があり大同二年(807)の創建で天日鷲命(あめのひわしのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)をお祀りしています。記録では将軍Dsc04947源頼朝が社殿修理料を献納、地方豪族も深く尊信し徳川幕府は朱印地(社領)二十石、除地(免税地)百石を寄進しています。御本殿はもと本宮の地にありましたが天文二十一年(1552)現在の峰に移り天明八年(1788)大改築がなされました。 このほか楼門安養閣・鐘楼・奥山稲荷・本宮等があり、老杉古木にかこまれ、古来より霊峰と呼ばれ、またかつての修験道の霊場でもありました。建築は豪壮と繊細の中世と近世の様式が混存し各所に神仏混淆の跡を残しています。祭礼は春四月十七日が例祭、秋十一月第三土曜・日曜に夜祭・新嘗祭が斎行されます。特に第三土Dsc04950曜日の夜祭は創建以来の古儀秘伝を存しています。云々』とある。天日鷲命は製紙に縁のある神様、 美和村(現常陸大宮市)は昔から和紙の里として知られ、鳥子紙という良質の紙を漉いてきた所なので、神社の名称と祭神もその事に由来するのであろう。次に本殿へ向うと、大鳥居の前に県境を示す看板が立っている。山頂に建つ本殿境内を茨城県常陸大宮市と栃木県馬頭町の境界が通っており、社務所も参道の両側にひとつずつ置かれている。宮司も別らしい。また随身門と本殿は両県の文化財に指定されている念の入れ様である。社務所から拝殿前まで登る石Dsc04958 段は96段あり、往復すると二九六(不苦労)ということになり幸運をもたらすと言う。いろいろ工夫を凝らしてある。石段登り口の両側に、文久二戌年(1862)銘の本社屋根銅板寄進碑と昭和57年(1982)銘の奉改修御社頭石段寄進碑とが建つ。寄進者の中に江戸時代後期に鳥子紙を生業にして財を築いたという薄井家の名前は見当たらない。本殿の傍らには栃木名木百選に選ばれた鷲子山の千年杉(樹齢1,000年、周囲7m、直径2m20cm)が聳える。他にも鬱蒼たる老杉、古木が霊域を取り囲む。本殿にお参りした後、今が花盛りの寒椿の林を通り抜け境内最奥の奥山稲荷にも参詣する。山頂を後にし、亀井戸でご神水を一杯試飲してから車に戻る。

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陰陽神社

2009年3月15日(日) 奥久慈の盛金富士Dsc04886に登りに行く序に、同じ山方町(現常陸大宮市)にある陰陽山にも登り、 山頂に建つ陰陽神社に参詣する。陰陽山の名の起りは、山頂付近にある二つの大岩を夫婦石(陰陽石)に見立てて御神体としたことに由来する。陰陽神社は水戸二代藩主、徳川光圀公が寛文元年(1661)に創建を思い立たれ、元禄四年(1691)に社殿が完成したとのこと、以来山方の旧七箇村の村社として崇敬を集めてきた由緒ある神社である。登山口の南皆沢公園駐車場に車を置き、一の鳥居をくぐる。春季(4月15日)、秋季(10月15日)の例祭のほかにも節目節目で祭礼が執り行われており、今でもお参りする人がDsc04883 絶えないようである。二の鳥居の手前に立つ不動明王像の銘は文政十亥年(1827)三月、 急な石段を登っていくと中段に立派な幣殿が建つ。そこから反時計回りに山腹を登っていくと本殿の前に出る。狛犬の形が一般的な獅子ではない。台座に彫られた銘文を読むと、朝鮮北部高麗地方に於いて狩りの時に使われた短足低背の犬の形をしているとあり、此の地も埼玉県の高麗(現日高市)と同じく渡来人が住み着いた所であろうか。190年前に当該狛犬を奉納した人々の子孫有志が平成四年十二月に修復したもので、氏子総代根本保氏、宮司高木邦久氏とある。信仰心に富む奇特な人々はまだまだいる。Dsc04897御祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冊尊(いざなみのみこと)、 御神徳は「結婚縁結び」「子授け安産」「夫婦和合」「延命息災」「諸願成就」と何でも御座れである。また古来より晴天を陽石に、慈雨を陰石に祈願したものらしい。本殿の裏手に御神体の陰陽石が寄り添うように聳え立つ。向って右側(東側)の陰石は長さ10m、横2.3m、厚さ2.5m、左側(西側)の陽石は長さ8.8m、横5.6m、厚さ1.9mであり、見上げるような巨岩というわけでもない。形状からいって陰陽逆でも良いと思う。何はともあれ有り難い、傍に寄り右手で陰石に左手で陽石に触れる。前期高齢者に近くなって家人から別れ話を切り出されでもしたら目も当てられないので、ここは「飽きられませんように」「捨てられませんように」と必要最小限の夫婦円満をお願いする。山頂の展望台から水戸市街や筑波山を眺めた後下山、盛金富士へ向う。

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筑波山大法源院最勝王寺

2009年2月15日(日) 筑波山塊のDsc04705椎尾山を歩き終え、県指定文化財の「宋版一切経5,535巻」(昭和33年3月12日指定) を収蔵する最勝王寺を拝観に行く。所在地は桜川市真壁町東山田1614番地、 県道41号線から少し入った所、筑波山の北西麓にある。創建は天応元年(781)とのことなので椎尾山薬王院に匹敵する古刹である。宋版一切経(大蔵経)は平安時代末から鎌倉時代にかけて、栄西、重源ら入宋僧の努力で我が国に招来されたもの、それを護持していることは最勝王寺が当時大寺(最勝王経は護国三経のひとつなので、寺号から判断すると官寺?)であったことを物語る。経蔵前に建つ石碑の説明に拠ると、「唐土の仁宗皇帝、一夜夢みらく、神人枕辺に立ちて帝に告ぐ、『汝は元、日本武蔵国岡部の六弥太忠純なる勇者なり。Dsc04714上野国世良田山長楽寺開山栄朝禅師に帰依し種々善縁を結ぶ。汝その果報にて帝王に生るることを得たり。 早く財宝を日域に送りて報恩を謝すべし』と。帝、夢中の事を信じて大船三艘を発し種々 の宝物を積み長楽寺に送る。一艘は常陸の浜に到る。是には一切経、諸佛の尊像、幡蓋、幢幡等種々の佛器、中に喬曇弥手織りの幡蓋二旒あり。此より駅を経て馬漸く当寺に到り、止まりて遂に当寺の宝物となる、と伝えらる。然し是より約百五十年前、文永七年(1270)云々の箱書あり。此頃既に当寺に伝来しありたるものの如し。寛永十年(1633)天海僧正一切経開板に就き、当寺宝蔵のDsc04709一切経を○○の為に使用し新本百廿余巻寄附せらるること上掲の額に依て明らかなり。昭和三十三年三月、茨城県重要文化財に指定せらる。 昭和五十四年四月 最勝王寺五十七世○○成之」とある。伝承はともかく、5,535巻のうち5,195巻が約900年前の南宋版木版刷り折本で、残りの300巻余は慶安元年(1648)に完成した天海版一切経(徳川幕府の支援で完成した寛永寺版一切経のこと)とのことである。鉄筋コンクリート製の経蔵の奥深く収蔵されており、公開されていないので見学は叶わない。本堂と最上部に建つ釈迦堂とにお参りして最勝王寺を後にする。

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椎尾山薬王院

2009年2月15日(日) 筑波山の西麓、男体山から派生する尾根上の隆起、椎尾山に登る序に、中腹に建つ天台宗の古刹、椎尾山薬王院にお参りする。「西の富士、東の筑波」と並称される筑波山は、Dsc04657 古くから人々の信仰を集めた霊山だけに、その山中・山麓には筑波山神社や大御堂を始め数多くの古社・名刹が建立されている。椎尾山薬王院もその一つであり、延暦元年(782)最仙上人の開基、桓武天皇の勅願寺と称する古刹である。「三重塔」、「金銅造 薬師瑠璃光如来坐像」、「椎尾山スダジイ樹叢」は茨城県指定文化財であり、「本堂」、「仁王門」、「木造 因陀羅大将立像」、「小金銅仏立像(四躯)」、「算額(二面)」は桜川市指定文化財と見所が多い。参詣順路に従い仁王門をくぐる。仁王門は元禄元年(1688)の完成、仁王像とともに風神像、雷神像も祀られている。Dsc04656 本堂は数度の火災を経て現在のものは延宝八年(1680)の完成、堂々たる建造物である。本堂に上り、薬師如来の真言「ヲンコロコロセンダリ マトゥギ ソワカ」を唱えてお参りする。堂内には、巨大眼鏡が置かれてあり、蔓の輪をくぐると眼病が癒ると云う。最近めっきり老眼が進み飛蚊症気味の我が眼を、今しばらく長持ちさせるためにと喜んで輪を潜る。堂内に開山堂もあり最仙上人像が祀られている。像の前に手書きの「開山最仙上人縁起」が掲げられており、それには、「最仙上人は今から一千二百年前、今の茨城県関城町茶花氏の長子として生れた。上人は幼い時から学問等に優れた才能を発揮し、神童と呼ばれるほどであったという。後に佛門に入り初めは法相宗に属していた。上人は当院の南谷にある椎の洞に篭り、朝に法華三昧の境に入り、夕に念佛観心をこらし、定慧兼備の名僧として世の中に徳を施していた。椎尾山略縁起を見ると次の一説がみられる。『偶々、上人の在す洞より紫雲棚引きて、光燦然として禁闕に及べり。桓武帝之を奇とし給ひ、Dsc04666 勅して侍臣を遣わし光源を尋ねしめ給ふ。勅使即ち光を便りて、当山南谷椎の洞に至り、上人に遇ひ修法の恵を問ふ。上人答へて曰く、吾は唯天下泰平国土安穏を祈るの外に他意なしと』。このことによって当院は桓武天皇の勅願寺として建立され、最仙上人の霊験あらたかな功徳は桓武帝、そして一般大衆に至るまで及んだという。そして上人は伝教大師最澄の高弟となり、宗派も天台宗に改められ、以来法灯一千二百年の歴史を今もきざみ続けている」と書かれてある。本堂の右側に建つ三重塔は茨城県内三塔のひとつに数えられ、38世学頭本孝(がくとうほんこう)、Dsc04720 39世尊孝(そんこう)が、大工棟梁桜井瀬左衛門安信の手により宝永元年(1704)に完成させたもの、桜井安信はその8年後に成田山新勝寺三重塔も完成させており、当代きっての宮大工であったろう。建築様式が奈良法隆寺の五重塔に似ていると云われるだけあって重厚な建造物である。すっかりお参りと見学を済ませてから、薬王院の裏山、スダジイの巨木に覆われた椎尾山へ登りに行く。因みに、県天然記念物(平成6年1月26日指定)の椎尾山スダジイ樹叢は、境内と裏山斜面一帯2.6ヘクタールの範囲にあり、樹齢300年から500年と推定されるスダジイの古木が10数本生育している。他にクスノキ、ケヤキ等の大木もあり、加えて108科395種の植物相、37科111種の動物相が確認されている。自然環境保全上貴重な樹叢である。

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横山不動尊

2009年1月17日(土) 柳津虚空蔵尊から国道45号線を7.5㎞北上した所に横山不動尊はある。山門、Dsc04540 御堂とも柳津虚空蔵尊より立派である。それもその筈、御本尊の木造不動明王坐像は丈六(4.8m)の巨像で我が国屈指の雄作、国の重要文化財に指定されている。奥の細道三十三霊場第九番とあるので、今から320年前に芭蕉と曾良も一関へ向う途中にお参りしたのであろう。境内には国指定天然記念物「横山のウグイ生息地」の御池があり、また宮城県指定文化財、明和三年(1766)建立の「青銅五重塔」、津山町指定文化財の樹齢300~400年の「横山不動尊のスギ」、同じく樹齢200年の「横山不動尊のカシ」(北限のシラカシ)などがあり見所が多い。本堂にお参りし、境内を一巡りしてから帰路に着く。Dsc04556

《横山不動明王略縁起》  当山鎮守大聖不動明王は、日本三不動の一と称され、丈六の尊像は弘法大師の御作であります。凡そ今を去る約八百有余年の昔、七十七代後白河天皇の御代、保元(1156-1158)の頃百済国より本吉郡志津川町水戸辺浜に着岸、三條重信と称する供護の従士、霊感により当横山中の森山中央に一宇を建立し尊像を安置し給うたと言われます。中の森山とは現境内を去る六百米余の寺有林山上で不動尊奥ノ院と称されます。当時は明王山金剛寺と称し、真言の道場でありましたが、その後、Dsc04555永正元年(1504)当横山邑館主男沢蔵人殿が改めて禅刹(曹洞宗)とし、白魚山大徳寺と呼称いたしました。  天正十八年(1590)葛西左京太夫晴信殿が山麓に本堂を移され、深く霊像を信仰し給うたと言われます。その後、貞享二年(1685)仙台城主伊達綱村公、高堂五間四面に御再営、佛供料として知行高弐貫文並びに宝物等の御寄付があり、代々御墨付を頂戴し、霊験あらたかな不動尊として広くその名が知られ、多数の善男善女により深く信仰されてまいりました。大正十五年(1926)二月五日附近の民家より出火、折節風は烈しく、炎は忽ちにして本堂に延焼し、惜しくも全焼しましたが、幸にして御本尊は災禍を免れ昔の姿をとどめております。現在の堂宇は、昭和三年(1928)五月七日完成し、現在に至っていますが、建築流儀は本林流宝塔造りと称されます。なお縁日は毎月二十八日、大祭典は春秋の二回、四月及び十月の各二十八日であります。昭和五十四年二月三十日(?)、当不動尊境内および寺有林全域は、南三陸金華山国定公園の一部に指定されました。

《重要文化財・木造不動明王坐像》 「横山のお不動様」の名で今も広く信仰を集めるこの尊像は、通常みられる仏像では最大の基準(丈六=一丈六尺。約4.8メートル。坐像はその半分)を用いた巨像であるばかりでなく、Dsc04549製作時期が平安時代にまでさかのぼるという、わが国屈指の不動明王像の雄作である。仏敵を打ち砕くべく忿怒の形相を示すものの、全体に温雅な気分の漂う作風は平安時代後期の特色をよくあらわしており、この尊像が保元年中(1156-1159)に近くの浜辺に流れ着いたという寺伝を製作時期のひとつの目安とすることは可能である。東北地方の仏像に多いカツラを用材とすることから、この地方で活躍した仏師の製作になるものとみられる。これほどの巨像を破綻なくまとめ上げ、さらには手先に至るまで内部を空洞にして荷重の軽減を図るなど、その技量は賞されよう。この地域は当時、「本良荘」と呼ばれ、平泉にあった奥州藤原氏の勢力が及んでいたと考えられている。この尊像の製作にも奥州藤原氏がなんらかのかたちで関与した可能性は考えられる。この地域の歴史を語る上でも貴重な存在である。また、修理による改変が少なく当初のお姿をよくとどめ、手先、宝剣までがほぼ当時のままであることは大変喜ばしい。 平成10年3月 津山町教育委員会

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柳津山宝性院(柳津福智満虚空蔵尊)

2009年1月17日(土) 過日ネットで調べたところ、宮城県にも日本三大虚空蔵尊と称するお寺(柳津山宝性院)がある。Dsc04502所在地は本吉郡津山町、仙台から北東70㎞ほどの距離である。灯台下暗し、仙台に帰省した序に早速訪ねてみる。 10:10出発、国道45号線を北上し、松島、石巻を経由、12:20宝性院着。駐車場も境内も夜来の雪が凍てつきつるつる。山門や御堂はこじんまりしており、寺勢盛んとは言い難いけれども、奥の細道三十三霊場第八番、三陸三十三観音霊場第九番の門札を掲げているところを見ると、名刹、古刹であることは間違いない。境内に掲げられた由緒書を読むと、「日本三所の一 宮城柳津福智満虚空蔵尊 当山は柳津山宝性院と号し、真言宗智山派に属す。神亀三(726)年(第四十五代聖武天皇)秋九月行基菩薩勅を受け東国を巡遊し、Dsc04516この地に来り御修法二十一日間一刀三礼し、 自ら虚空蔵を刻む、その丈一尺二寸もって、 天下泰平、国家安穏を祈り、同月十三日一宇を黄土山の嶺に創立しこれを信心して、一村の守護仏として尊崇した。後宝亀二(771)年三月大伴家持宮城郡多賀城にありし時登山して、これを拝して言うに福島の会津柳津、山口の柳津に安置せる仏像も同じく行基の作で日本三所の秘仏である。かくも尊いものなれば三十三年目毎に開帳する外みだりに衆人これを拝すること恐れありと。其の後弘仁九(818)年(五十二代嵯峨天皇)五月三日弘法大師此の堂に籠もり二十一日間の密行を務め、大黒天長さ八寸のものと、毘沙門天長さ一尺二寸のものの二体を刻し、 もって其の左右に安置し尚本堂を今の地に移した。其の後中古に至ってしばしば野火にあいましたが幸にして本尊の安泰を得、法灯連綿として現在に至っております。虚空蔵菩薩は丑、寅生れの一生一代の守り本尊であり鰻(うなぎ)は虚空蔵菩薩のお使いの魚で絶対に殺生しないことになっております」とある。又、境内には柳津虚空蔵尊七不思議という「玉こぶの欅」、Dsc04525「雫の桜」、「一夜の松」、「月見の井戸」、「片葉のよし」、「黄土山の黄金水」、「子育ての松」もあり、更に、大伴家持作の百人一首(「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにけり」)に詠まれている鵲(かささぎ)橋まである。二重、三重に虚空蔵尊の権威付けがなされている。今年は丑年なので一段とお参りする人が多く、松の内が明けた今日でもひっきりなしに地元の人がやってくる。虚空蔵菩薩の御真言(「のうぼうあぎやしや ぎゃらはやおんありぎや まりぼり そわか」)を唱えながら本堂にお参りする。その後、背後の山(黄土山、現在の地図名では大土山)の中腹に建つ奥の院にもお参りする。そして道なき尾根を急登して山頂を極める(姉妹編ブログの自惚山人ノオト「432.大土山」参照)。下山後、津山町のもうひとつの名所、横山不動尊へ向う。     

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大崎八幡宮

Dsc04432_22009年1月15日(木) 昨日、ひとり車で帰省、榴ヶ岡天満宮のドンド焼きに辛うじて間に合い、古い神札や破魔矢、達磨等を無事焚き上げる。今朝起きると外は一面の銀世界、小雪が舞い、さすがに仙台は寒い。 午後雪が止んだので、八幡町の大崎八幡宮へお参りに行く。大崎八幡宮のドンド焼き(松焚祭(まつたきまつり)と称している)は三百年の歴史を有し、全国でも最大級の正月送りの行事である。また松焚祭の「御神火」を目指して市内各所より数千人が参拝する裸参りは、杜の都・仙台の冬の風物詩として知られている。駐車場に車を入れ、Dsc04442三の鳥居左側の広場に廻ると、大分衰えたもののなお御神火が燃えている。今日も松飾りを燃やしに来る人があるらしい。炎にあたり、今年一年間の無病息災と家内安全を願う。その後重要文化財の「長床」をくぐり、国宝の「御社殿」にお参りする。御社殿は安土桃山時代の文化を今に伝える我が国最古の建造物であり、藩祖・伊達政宗公が豊臣家召抱えの工匠を招聘して造営に当らせただけに、豪華絢爛、豪壮華麗、仙台総鎮守の名に相応しい建物である。 今日の最高気温は2度、境内は合わせる手がかじかむほど寒さが厳しく、早々に退散する。

《御由緒》 Dsc04435_2平安の昔、東夷征伐に際して坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀。その後、室町時代に奥州管領大崎氏はこれを自領内の遠田郡田尻町(現大崎市)に遷祀し守護神として篤く崇敬した為、世に大崎八幡宮と呼ばれる。大崎氏の滅亡後は伊達政宗公が居城の玉造郡岩出山城内の小祀に御神体を遷し、仙台開府後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀る。その際に旧領の羽前国米沢にて代々崇敬していた成島八幡宮を合祀している。藩政時代を通じ歴代藩主の篤い尊崇を受け、明治以降は大崎八幡神社と称していたが、その歴史的経緯を考慮し、平成九年六月、社名を大崎八幡宮に復し、現在に至る。  

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峰寺山西光院

Dsc043862009年1月8日(木) 筑波連山の支峰のひとつ、峰寺山に登るべく、その中腹にある西光院の駐車場に車を駐める。峰寺山という山名の由来となったお寺であり、関東の清水寺とも称される由緒ある古刹なので、山頂に登る前にお参りする。  旧八郷町(現石岡市)教育委員会の解説板を読むと、「県指定有形文化財 *西光院本堂(建造物)、指定年月日 昭和45年9月28日、*木造立木観音菩薩像(彫刻)、指定年月日 昭和36年7月21日、所在地 石岡市吉生」という題で、「峰寺山西光院は平安初期の大同年間、京都から来た徳一法師の開基と伝えられ、Dsc04379もとは法相宗であったが、中世真言宗となり現在は天台宗に属している。峰寺山の中腹にあり、晴天の日は霞ヶ浦より遠く太平洋を望むことができ、眺望絶景の位置にある。自然石の観音像を本尊とするこの寺の本堂は関東の清水寺と呼ばれ、岩棚状の細長い敷地の奥の崖に懸け出して建てられた懸造りの建物で、岩肌に脚柱を建て舞台型を作った上に、桁行三間梁間三間寄棟造り瓦棒鉄板葺(もとこけら葺か)の本体を組んでいる。この本堂は崖の表面に作り出された巨大な石仏の上半身を覆うように作られた珍しいもので、現在の建物は江戸時代末期頃と推定されるが、石仏が火災にあっているところから、前身堂が焼失したのが判り、寺院の創立は相当古いとみられる。またこの寺には、立木仏と呼ばれる十一面観音立像が祀られている。これは徳一法師の創建と伝えられ、像内にある元文二年(1737)の修理墨書銘札によると、本来ここにあったものではなく、もと山麓吉生村の立木山広照院長谷寺に伝来したらしい。Dsc04395像高597センチメートル。弁形刻出の天冠台上化仏から腰裳の下四分 の一位までがハリギリ材の一木造、頂上仏を枘差し、両臂・両肘矧付け、頭・体部とも内刳りを施し、背板をあてている。像は雨にかかったせいか、像表面が荒れ、当初のノミの痕を見ることは出来ないが、そのずんどうの体躯のとらえ方、後補とはいえ、台座をつくらず自然木の根を矧付けている点など、本来立木仏として造られたことを伝えている。製作年代は平安時代末、十二世紀頃のものであろう。」と書かれている。先ず観音堂にお参りする。堂内には巨大な立木観音像と、常陸七福神の毘沙門尊天が祀られている。次いで本堂の回廊に上りお参りする。格子扉の内部を透かして見ると、厨子の前に憤怒の形相の前立ち馬頭観音菩薩像が置かれている。厨子の扉は固く閉ざされており、その内部は窺い知れないが、恐らく自然石であるご本尊のお顔の部分が隠されているのであろう。有り難くお参りしてから、箱庭のような八郷盆地と雪割山・浅間山の山並を眺める。茨城百景に選ばれているのが納得できる素晴らしい景色である。今日は思いもよらず立派な観音様に巡り逢うことが出来て真に幸せ、決まりをつけるために峰寺山の山頂へ向う。

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佛法山東漸寺

2008年12月1日(月) Dsc03792_2今年も早や師走に入る。今日は家人を伴い東葛地域の紅葉の名所である東漸寺へ出かける。 場所は松戸市の北小金、自宅からゆっくり歩いても30分弱、散策にちょうど良い。10日前にも訪ねたがやや時期尚早でモミジは色付き始めたばかり、今日は出直しである。行って見ると境内にぞろぞろ人がいる。団体・個人の見物客あり、三脚を立てて熱心に撮影するカメラマンあり、附属幼稚園の園児を迎えにきたお母さん達ありで大賑わいである。それもそのはず、境内のモミジの紅葉とイチョウの黄葉はいまが盛り、見事な景色である。今時珍しく拝観料が無料なのも嬉しい。そういえば総門前の掲示板に「無財の七施(むざいのしちせ)」とDsc04069云う言葉が掲げてあり、それには「あたたかい眼差し(眼施)、にこやかな表情(和顔施)、やさしい言葉(愛語施)、精一杯のこころがけ(身施)、いつくしみ深い心(心施)、人にあたたかい席を(床座施)、気持ちよく迎える心(房舎施)、無財の七施の心がけは日常生活の潤滑油である。」とある。お寺さんは本来こうでなければならぬ。本堂にお参りし、南無阿弥陀仏を唱える。それから紅葉を心行くまで眺め、ギンナンを少し拾ってから境内を後にする。

《東漸寺沿革》 文明十三年(1481)経譽愚底運公上人により根木内に開かれる。根木内城主高城氏と深いつながりを持ち、高城氏が小金城へ移転した天文六年(1537)、ほぼ同じ時期に現在地に移転した。 江戸初期には関東十八檀林(浄土宗僧侶の養成機関・学問所)のひとつに数えられる。享保七年(1722)には大改修が成就し、本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、Dsc03799山門、大門、8つの学寮など20数箇所もの堂宇を擁し、末寺35ヵ寺を数える大寺院へと発展した。徳川幕府の手厚い庇護を受け寺勢盛んであったが、明治3年の廃仏棄釈令等により多くの堂宇を失い、第二次大戦後の農地解放で広大な寺有田を失うなど衰退し荒廃した。昭和40年代後半より熱心な檀信徒の協力を得て、開創500年記念事業として、本堂、鐘楼、中雀門、山門、総門の改修、書院の新築を行い、平成8年には観音堂の再建を完成した。毎年4月25日から27日までの3日間行われる“御忌(ぎょき)まつり”(御忌;浄土宗開祖法然上人の忌日にちなんで行う法要のこと)は、江戸時代より東葛一円の人々に親しまれており、今尚多くの参詣者が訪れる。

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仙台東照宮

2008年8月15日(金) 「人の一生は重荷を負ひて遠き道をゆくが如し。急ぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし。Dsc09661心に望おこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。いかりは敵とおもへ。 勝事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」、東照君こと徳川家康公の御遺訓であり、今日の日本人が最も良く噛みしめねばならぬ言葉のひとつであろう。そんな思いもあって午後は仙台東照宮へ参拝、日光や久能山など全国に21箇所ある東照宮のひとつである。由緒書きによると、「仙台藩二代藩主伊達忠宗公は、徳川幕府への尊崇・感謝の標として、Dsc09664 慶安二年(1649)五月二十八日、三代将軍徳川家光公に東照大権現の仙台勧請を願い出て許しを受け、同年八月十七日普請始(着工式)を行った。この地は玉手崎とよばれ、天正十九年(1591)十月、徳川家康公が葛西大崎一揆の視察を終えて江戸へ戻る途中、藩祖伊達政宗公と宿陣された所で、祭神縁りの場所として社地に選ばれたという。尚、この地にあった天神社は東隣に移され、寛文七年榴岡に移された(現在の榴岡天満宮)。社殿が完成したのは、着工以来五年後の承応三年(1654)である。同年三月十六、Dsc09667 十七日に、造営落成御遷座の儀式が荘厳に行われた。造営に当った人足五十八万三千六百七十五人、大工十二万九千九百六十七人、材木二万四千七百三十本、総工費小判二万二千四百九十六両を要した。諸国に材を求め、一流の工匠が工事に携わる等、仙台藩総力をあげての大事業であり、伊達文化の粋を結集したものであった。以後、伊達家の守護神として尊崇され、明暦元年(1655)より毎年九月十七日を祭典日と定め、藩主在国の年には城下十八ケ町に命じ、神輿渡御の先駆として山鉾を出さしめ、Dsc09674 藩内最大の祭礼であった。この祭りを仙台祭と称し、江戸時代末期まで盛大に行われた。昭和十年(1935)八月六日早朝、失火により幣拝殿が焼失し、貴重な文化財が烏有に帰したが、昭和三十九年(1964)十一月十七日、氏子崇敬者の協力により原形に復興された。本殿、唐門、透塀(すきべい)、随身門、石燈篭、石鳥居は国指定重要文化財に、手水舎(てみずや)は県指定有形文化財に、それぞれ指定されている。昭和五十三年(1978)六月、唐門、透塀の大修理が竣工、昭和五十五年(1980)六月には本殿の修復工事が完了して、創建時の荘厳華麗な姿に復元された。」とある。日光の東照宮には及ぶべくもないが、それでも伊達文化の粋を結集したというだけあって、いずれも重厚で格調高い建造物、見応えがある。

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あぢさい寺・長谷山本土寺

2008年6月27日(金) あじさい寺といえば鎌倉の明月院が有名であるが、松戸市にある本土寺も近年とみに評判を高め人気を集めている。Dsc08012今がちょうど紫陽花と菖蒲の見頃とのことで家人を誘い見物に行く。歩いても30分とかからないが、混まないうちにと9:10のバスで最寄の北小金駅へ出る。日蓮宗本山である長谷山本土寺は、建治三(1277)年、もと源氏の名門、豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の弟子日朗を導師として招き開堂したことに始まる。池上の長栄山本門寺、 鎌倉比企ケ谷の長興山妙本寺と共に、朗門の三長三本と呼ばれ、宗門中屈指の大山として寺勢隆盛であったが、度重なる不受不施の法難と明治維新の廃仏棄釈運動のために衰滅し、Dsc08028今は昔の偉容をうかがえない。しかしながら、宗門三聖人と呼ばれる平賀家三兄弟、即ち師孝第一と讃えられる日朗聖人、日蓮大聖人に次ぐ偉聖と崇められる日像聖人、そして池上本門寺、比企ケ谷妙本寺の大成者日輪聖人が出世した聖蹟として今なお名高く、又開運、乳出子育、学業増進、所願成就の霊験で知られる名刹である。 本土寺を前回訪れたのは20年前位、その当時はあぢさい寺として売り出し始めの頃で、紫陽花も小さく境内の整備も進んでいなかったが、今はすっかり観光寺院化し、Dsc08039集客効果による収入安定のなせる業か、五重塔、鐘楼、客殿、茶室などが立派に新築、もしくは修築されている。順路沿いの到る所に植栽されている紫陽花も、人の背丈を上回る大株に成長し、菖蒲池や睡蓮池周りは特に見事である。平日の朝一番で空いていたのを幸い、順路に従って境内を二回りし、盛りの花を堪能する。境内には他に、甲斐武田二十四将の一人、秋山伯耆守信友の甥、秋山虎康の墓、秋山虎康の娘で、徳川家康の側室、於都摩の方の墓(秋山夫人は家康の第5子万千代君を生む。万千代君は後に武田信吉を名乗り、天正十八年(1590)に小金城三万石に封じられた。現在の墓石は信吉の甥、徳川光圀が貞享元年(1684)に建立したもの)、東葛地方の俳人の句碑などがある。

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陸奥国分寺跡

Dsc07915 2008年6月21日(土) 6:30起床、きょうも深い霧の朝。午前大林寺へ墓参に行き、序に木ノ下の陸奥国分寺跡を見学する。国指定史跡「陸奥国分寺跡」に着き、先ずは入口に立つ説明板を読む。『国分寺は、国分尼寺とともに、天平十三年(741)二月十四日の聖武天皇の詔により、国家鎮護の宗教的機関として各国ごとに建てられた。金光明四天王護国之寺と呼ばれ、法華滅罪之寺と呼ばれた尼寺とあわせて、全国で124ケ寺建てられたと伝えられているが、 仙台に所在するのはそのうちの一つで、古代陸奥国に建Dsc07918てられたものである。 具体的な造営の経過については文献からうかがうことはできないが、創建時の瓦から推定して天平十三年から天平神護三年(767)に至る頃と考えられている。陸奥国はその名が示すように「道の奥の国」で、奈良から東にのびる東山道の終着駅にあたる要地であり、古代東山道は国分寺跡の東方に沿って陸奥国を直轄する国府多賀城へ通じていた。本史跡については昭和30年~34年に本格的な学術調査が行われ、その結果壮大な伽藍の全貌が明らかになっている。すなわち、その伽藍は一辺約240メートル(800天平尺)四方の寺地を区画して南向きに建てられたものとDsc07917考えられ、寺地の南北中軸線上に南大門、中門、金堂、講堂、僧坊が一直線に並んでいる。また金堂、中門を廻廊で結び、金堂、講堂間の東西に鐘楼、経楼を、金堂の東には七重塔を置き、塔にも廻廊をめぐらしている。塔の廻廊は柱が二列の単廊であるが、金堂、中門を結ぶ廻廊は三列の複廊であった。伽藍配置等をこのように明確に知ることのできる国分寺跡は全国的に見ても珍しく、  大変貴重であるので計画的な保存が図られており、昭和47年度からは、主要堂塔を中心に環境整備が進められている。仙台市教育委員会 』。境内には陸奥国分寺の堂塔のDsc07941礎石が残るだけであるが、慶長十二年(1607)伊達政宗が再建した薬師堂(重要文化財)、鐘楼、仁王門が建ち、奥の細道三十三霊場の第一番となっている。堂内からは朝のお勤めであろう、読経の声が漏れてくる。そのほか、仙台市指定保存樹木の大イチョウ(樹齢約350年)、大ヒイラギ(樹齢約200年)があり、歴史の重みを感じさせる。道を挟んだ隣地には、仙台三十三札所の第二十五番、準胝観音堂が建つ。その境内には、芭蕉句碑(「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」)が建てられている。元禄二年(1689)五月、おくのほそ道の旅で仙台滞在の折、国分寺跡に参詣Dsc07926したという記述があるが、まさにその時の吟詠である。他にも望月宗屋句碑、大淀三千風供養碑(仙台市指定文化財)などがある。又、庚申塔、二十三夜塔、蔵王大権現碑、山神碑、南無阿弥陀仏碑、それに百八地蔵尊霊場第一番の延命地蔵尊像も立つ。それにしても貴重な史跡が自宅の直ぐ近くに存在していたものである。これまでは全く無関心であったが、この歳になるとその有難味が良く判る。

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榴岡天満宮

2008年6月19日(木) 自宅のあるマンションの西隣は榴岡天満宮、11階のベランダからお参りしている人が見える。Dsc07910神様を高い処から見下ろすとは罰当たりなことであるが、仙台に帰ってきた時は毎朝お参りに行くので許してもらえるであろう。元禄二年(1689)五月七日に松尾芭蕉が榴岡天満宮を訪れており、「おくのほそ道」の「宮城野」の項に『名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。爰(ここ)に画工加衛門と云うものあり。聊(いささか)心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思いやらるゝ。 玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももDsc07904らぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝みて、其日はくれぬ。猶、松島・塩がまの所々画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。「あやめ草足に結ん草鞋の緒」』と書かれている。近年境内の傾斜地を整地し、数10台も入る月極め駐車場を経営するようになったが、ために収入が安定的に増加したと見え、 境内の整備が大々的に進められている。社務所が新しくなり、随身門は塗りなおされ、句碑の解説板は新調され、Dsc07901車の交通安全祈願所が新設され・・・、まあ何よりも神官や巫女さん達の表情が明るい。昔のように氏子や崇敬者の奇特を頼むばかりでは神社商売も成り立たない。副業結構、あと数年も経てば見違えるほど立派なお社になるであろう。拝殿の傍らには、仙台市の名木・古木88選に選ばれている樹齢340年の梅の老樹がある。他には、学問・詩歌・文筆に秀でていた菅原道真公に因む筆塚六、歌碑二 、芭蕉翁に因む句碑十九が建てられている。其の中で、寛保三癸亥歳(1743)二月七日建立の「芭蕉五十回忌蓮二(支考)十三回忌追善碑」(◇あかあかと日はつれなくも秋の風、◇十三夜の月見やそらにかえり花)は、仙台市の有形文化財に指定されている。

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布施弁天(紅龍山東海寺)

P1070190 2008年4月21日(月) 「レミがいないと詰まらんのう」、「レミがいないと寂しいねえ」、朝から家人と何度も同じ繰り言。家に引き籠っていても落ち込むばかりなので、あけぼの山農業公園へ16万本のチューリップ畑を観に出かける。平日なので渋滞もなく駐車場に到着、菜の花畑を観てからチューリップ畑へ行く。遠くから眺める分には綺麗だったが、近づいてみると花が萎み始めており、見頃はとうに過ぎている。昨年は16日、一昨年は3日の来園だったので無理もない。P1070163 例年購入する草餅も食欲がなく見送り、隣の布施弁天へお参りに行く。東日本随一の弁天様というだけあってお参りする人も多く、寺勢は盛んである。竜宮造りの楼門(1810年建立)、朱塗りも鮮やかな本堂(1717年建立)、多宝塔型鐘楼(1818年建立)はいずれも千葉県指定有形文化財(建造物)であり、他にも三重塔、庭園など見所が多い。布施弁天は通称で、正しくは紅龍山東海寺と云い、真言宗豊山派のお寺である。三寸余のご本尊は秘仏で巳年のみの御開帳(次は2013年)であるが、八臂の大きな前立弁財天像を拝むことが出来る。

~布施弁財天略縁起P1070179~千葉県柏市布施に紅龍山東海寺という名刹がある。大同二年(807)七月七日の早朝、湖の中から紅色の龍が現れ、たちまちにして島が出現し、日が没するころにはおおきな振動と共に不思議な雲が島の周辺にたなびいた。そのときどこからともなく現れた弁財天がいうには「私は但馬の国朝来郡筒江村より来たりてこの島に降臨したり」と。これより以後、毎夜のごとく島には明るい炎が輝いていた。弁財天が里人の夢に現れて述べるには「私の住んでいた安らかな山は但馬国朝来郡筒江村にあり。みるところ坂東武者はわがままにして欲が深く、P1070177 仏神を敬おうとする者少なし。よってこの地に来たれり」と。里人は島に渡り洞穴の中で光を放つ三寸余の尊像を発見した。この尊像が弁財天であることを知った里人は、歓喜のあまり藁葺きの小さな祠を構え、尊像を安置し、香華をたむけた。弘仁年間(810~823)、弘法大師空海は各地を巡錫の途中、この地に錫を止めた。弁財天を仰ぎ見ると、知恵・徳のある相にして慈悲の心あふれた像である。じっと見ていた空海は「ああ、これは以前、但馬筒江にいたころに彫刻した尊像である」と語った。筒江には香林庵という庵があり、この尊像は、空海がこの香林庵に止宿していたころに彫刻したものであった。空海の弟子の雲龍が里人からその顛末を聞き、歓喜のあまりこの地を布施と名付け、紅龍山東海寺を開創した。この後朝廷の庇護もあり、弘仁十四年(823)堂塔大伽藍を奉建し、荘園も寄進され勅願所に指定された。その後幾多の盛衰を経て、昭和四十九年(1974)四月、往時にまさる復興を遂げた。ちなみに、ご本尊の弁財天は秘仏で、御開帳は巳年(十二年に一度)に行われます。

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竹寺(たけでら)

2008年3月23日(日)Dsc06357 武蔵野32番札所の子の権現にお参りした足で、同33番札所の竹寺にもお参りしてきました。 竹寺というのは通称で、正しくは医王山薬寿院八王寺といいます。竹寺の略縁起には、『天安元年丑年(857年)、慈覚大師東国巡修の折、疫病流行し患者の多きを憐れみて、当山を道場として大護摩の秘法を修し、一切の障難を除き、疫病を降伏し病患を除かししめんことを誓い、一刀三礼して尊像を造り、世の人を救い後世に遺し給えり。以来東国霊場として、山岳信仰の道場として、千年余りの歴史を有している。本尊牛頭天王を祀り、Dsc06362本地仏に薬師如来を配し、神仏習合の姿を今に残す東日本唯一の遺構であり、疫難消除、除災招福、出世開運の「天王さま」と呼ばれ親しまれている。 また、境内の観音堂には、聖観世音が祀られており、武蔵野観音の三十三番結願寺ともなっている。』とあります。ご本尊の牛頭天王は、インド祇園精舎の守護神といわれ、中国に入り、密教、道教、陰陽思想の習合があり、日本に伝わったとされています。更に陰陽道との関わりを深め、また蘇民将来伝説とも結びつき、素戔鳴尊(スサノオノミコト)と同体とされています。境内に建つ牛頭明王ブロンズ像は、平成4年、中国人民有志により寄贈されたものとのこと、他にも牛頭天王社鳥居に設けられた茅の輪(くぐると心身が清められる)、豪壮な茅葺き屋根の本坊、飯能市天然記念物に指定されている樹齢400年のコウヤマキ、珍しい亀甲竹、緑の竹林、各種花木、句碑など見所が沢山あります。 そのうち名物の精進料理を戴きにもう一度訪ねる積りです。 

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子の権現(ねのごんげん)

2008年3月23日(日) 足腰守護の神様で有名な飯能市の子の権現にお参りしてきました。子の権現というのは通称で、Dsc06329正しくは大鱗山雲洞院天龍寺と云い、天台宗の別格本山になっています。 本尊としては、日本一体の子の聖大権現(ねのひじりだいごんげん)を祀り、諸尊としては、武蔵野三十三観音札所中の第三十二番十一面観音と、関東百八地蔵尊札所中の第十番厄除延命地蔵尊を祀っています。由緒に、『当山は、延喜十一年(911)に子の聖が天龍寺を創建されたことに始まります。子の聖は、天長9年(832)、子の年子の月子の日子の刻に紀伊の国でお生まれになりました。幼い頃より聡明にして仏教に通じ、僧となっては諸国をまわり修業を積まれました。Dsc06334特に出羽三山において修業をかさね、ある日、月山の頂上に登り、 年来読誦する般若心経を取り出し、「南無三世仏母般若妙典、願わくば、われ、永く跡を垂るべき地を示し給え。」と空高く投げました。すると、そのお経は南へ飛んで、当山の奥の院(経ケ峰)に降り立ち光を発しました。この光を目当てに当山山麓まで来られ、山を開こうとした聖は、悪鬼どもに襲われ火を放たれました。しかし、十一面観音が天龍の姿となって現れ、大雨を降らしその火を消してくれました。その後、当山で修業教化に励まれた聖は、Dsc06339長和元年(1012)「我、すでに化縁つきぬれば、寂光土に帰る。 然れども、この山に跡を垂れて、永く衆生を守らん。我、魔火のために腰より下に傷を負い悩めることあり、よって、腰より下に病ある者、誠の心で我を念ずれば、必ず霊験を授けん。能除一切苦。」という御請願を遺し、齢百八十一才で化寂されました。それ以後、子の聖の尊像をお祀りして、足腰守護の神様として広く信仰されることとなりました。尚、「子」には、物事の始まり、全てのものを生み出し育む大本の意味があります。』と記されています。Dsc06340 山歩きをする者にとっては大変有り難い神様なので、私めも「もう暫くは足腰が弱りませんように」、「千山登拝の目標が達成できますように」とお祈りし、本坊で500円を納めて足腰御守を授かってまいりました。入口に聳える埼玉県指定天然記念物の二本杉(推定樹齢800年)、参道の赤い仁王像、本堂の傍らに奉納されている重さ2トンもある鉄の大草鞋(かねのおおわらじ)、巨大な夫婦下駄、経ケ峰の釈迦堂と鐘撞堂などたくさんの見所があります。因みに、鉄の大草鞋は、昭和38年4月に小荷田徳次氏により奉納されており、その屋根は、昭和55年7月に小荷田和久氏によって奉納されています。親子2代にわたる積善と思われます。めおと下駄の方は比較的新しく、平成八年丙子の大開帳記念に東京都世田谷区の浅見ご夫妻が奉納されたものです。

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高山不動尊

2008年2月16日(土) 奥武蔵の関八州見晴台に登る途中、日野の高幡不動、千葉の成田不動とともに関東の三大不動といわれる高山不動にお参りしました。掲げられている国宝高山Dsc06095不動尊縁起略記を見ると、「当山は今から千三百二十有余年前人皇三十六代孝徳天皇の御代蘇我氏が横暴をきわめてより大職官鎌足公は中大兄皇子と力を合わせ蘇我氏を討たせらる。然るにその末統が関東に落ち延びともすれば叛旗を翻さんとし東国の地安定せざるにより、白雉五年鎌足公の第二子長覚坊上人、大和国三輪神社の別当宝勝坊上人、藤原の臣岩田三兄弟の五人を関東視察に差し遣せらる。此の五 人が常に不動明王を信仰し長覚坊上人が不動尊荷負い来たり関東諸方巡錫の後、当高山に登りたる処関八州を一眸の内に収め東国平定の根本道場たるの山相を感得したるにより、Dsc06109 国家安穏東国平定鎮護のために一宇建立して不動尊を安置し此の趣を鎌足公に上申したる処鎌足公より三十八代清明天皇に上奉同帝より勅願所として長覚寺不動明王の寺号と三萬六千余坪の御除地を賜る。(現在の見晴台、奥の院の所に建立す) 其の後四十四代元正天皇の御代行基菩薩は詔を奉じて登山参籠せられし際、 一人の老翁現われ、我は当嶺に鎮座す国造三輪明神也、今我が像を刻して当嶺に留め東国の守護神として鎮座すべしと御宣託在って当翁は五大尊不動明王の御尊像と化さる。行基菩薩は宝玉を感得したれば直に一根五木の大木を切って、五大尊明王の御尊像を彫刻して宝殿に安置したる。(現在文化財に指定されている軍荼利明王像は行基作五大尊の内一体なり) 皇室の帰依は勿論民衆の信仰深くその為に一山三十六坊相立って盛況をみる。宗祖弘法大師は秩父霊場巡錫の砌り、当山に登り三七日二十一座八千枚の護摩供の秘法を修して眞言両部の秘法を伝える。人皇七十四代鳥羽法王の御代に到り、当院住職覚監法印Dsc06114、醍醐山に登り三宝院勝賢僧正より法流を受け醍醐派となるとともに眞言両部神道の大道場となるも明治維新後神仏分離により知山派となる。三宝院勝賢僧正当山不動明王の霊験奇瑞なるを鳥羽法王に推挙せし処御感銘あらせられ不動明王の大幅を御納めあり今に秘蔵の七夕不動の大幅なり。建久三年源頼朝公より武運長久の祈願の為め御除地を賜る。又足利義政公より祈願料として御除地を賜り長禄元年銀製太刀一振奉納あり。徳川家康公より御除地を賜り尚、天正十九年吾野郷の内二石領を不動領として御寄進あり。其の後代々徳川家より御朱印地を賜る。代々将軍を初め一般民衆の信仰厚く、しかるに文政十三年十二月十四日民家の失火により御本堂初め仁王門、神楽殿、本坊、御師等一山焼失す。其の後現在の御本堂は飯能地方の棟梁により再建におよぶ。」とあり、現在はやや寂れていますが由緒ある古寺名刹であることが分ります。

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平成二十年初詣・成田山新勝寺

Dsc05897 2008年1月5日(土) 近所の富士浅間神社の初詣は元日に済ませたが、今年は成田山新勝寺開基1070年に当り、その記念事業として昨年の11月に総門が完成したとのこと、その見物がてら家人を伴い初詣に出向く。いつものようにイオンの駐車場に車を入れ、駐車料に見合う買い物を済ませてから、徒歩15分の成田山新勝寺へ向う。道沿いの商店の駐車スペースはもとより、民家の庭まで臨時有料駐車場に早変わりしており、新勝寺へ近づくほど600円から1,000円へと料金が高くなる。みな商魂逞しい。Dsc05903 山門の前に建つ総門は唐様、五間三戸の楼門で総欅造り、きらびやかで立派である。新年も5日というのにまだまだ参拝客は引きも切らない。本堂に進みお参りしてから、堂内の外陣に坐り護摩供養を拝観する。先ず法話を拝聴し、不動明王御真言を唱和する。「のーまく さんまんだー ばーざらだん せんだー まーかろ しゃーだー そわたや うんたら たー かんまん」。護摩供養の始めに読み上げられる会社名や個人名は特別供養をお願いした人々のものらしく、それが延々と続く。漸く読経が始まると、御札や信徒のバッグなど持ち物が次々に護摩の火にかざされて浄められる。すっかり有り難くなって退出、イオン近くの幸楽苑で昼食を済ませてから帰路に着く。

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戸隠神社奥社

Dsc03483 2007年9月3日(月) 北信五嶽のひとつ高妻山に登るため登山口の戸隠牧場へ移動する途中、無事の登拝を祈願するために立ち寄りました。16:55戸隠神社奥社入口にある大駐車場に着き車を置いて参拝に向いました。その参道の長いこと長いこと、鳥居をくぐってからほぼ一直線の道ですが奥社まで1.9㎞もあります。標高差も135mありたっぷり汗を絞られました。途中にある茅葺屋根の重厚な造りの随神門が中間点位で、それをくぐると樹齢400年の立派な杉並木が続きます。石段道にDsc03486 なり左手に飯縄大明神社が現れ、更にひと登りすると戸隠山登山口とその上に社務所が現れます。17:33ようやく奥社に着きました。御鎮座年は人皇第八代孝元天皇の皇紀207(BC453?)年という神代の昔からの古社、御祭神も天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)といいますので、天岩戸神話に登場する神様です。お参りしているうちに下の九頭竜社から参拝の終了を知らせる合図なのか太鼓の音が鳴り響きます。本日最後の参拝者になりました。薄暗くなる中キノコ観察をしながら駐車場Dsc03491へ戻りましたが、幸運なことにヌメリガサ科アカヤマタケ属のベニヤマタケに出逢えました。

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平成十九年初詣・柏市富士浅間神社

Img_33092007年1月1日(月)、柏市中新宿・冨士浅間神社。お雑煮を食べてから近所の氏神様に初詣に行く。清清しい元日の朝である。日頃キノコや木の実の観察とサンプリングでも大変お世話になっているので、普段の10倍のお賽銭を弾み家内安全とその他諸々を祈願する。

明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

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天開山大谷寺

2006年7月9日(日) 坂東33観音霊場 第19番 天開山大谷寺(天台宗)P1000670

御本尊:千手観世音菩薩

所在地:栃木県宇都宮市大谷町1198

御詠歌:「なをきくも めぐみおおやの かんぜおん みちびきたまへ しるもしらぬも」

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日光山中禅寺

2006年7月9日(日) 坂東33観音霊場 第18番 日光山中禅寺(天台宗)P1000666

御本尊:千手観世音菩薩

所在地:栃木県日光市中禅寺歌ケ浜2578

御詠歌:「ちゅうぜんじ のぼりておがむ みずうみの うたのはまぢに たつはしらなみ」

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